号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

さらにいくつもの、この世界の片渕に

アニメ映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の感想などです。

 

前に見てたのですが、今回アマゾンプライムに出てきて思い出したら、やはりよく出来ている気がしてならない。

長いので流石に映画を見直す気は起きなかったのですが、周りの感想が気になりもう一度探ってみようと思った次第です。

つまりネットで出てる、山田礼司さんや岡田斗司夫さんの感想だったり、富野さんと片渕監督の対談だったり、ネットで他の人の感想や考察だったりを見直してみようと思ったのです。

あれから時が達ち、色々見て聞いて、前より私の映画製作者の見方が変わった気がしてたので、今見たら違うように見える気がしたからです。

それに同じくアマゾンプライムに出てた、片渕監督の「さらにいくつもの片隅に」を作るあたりを撮ったドキュメント映画も見てみましたので、それの感想も少しあります。

 

片渕監督も面白い方ですね。

1960年生まれで、そうなると庵野さんと同じになる。

WIKIによると、ナウシカの脚本に係る予定だったが、色々ありダメだったとか、元々は魔女の宅急便の監督になるはずだったのに、スポンサーに宮崎駿じゃないとダメだと言われ、ダメだったとか。

とにかく早くから才能を発揮しそうなのに、色々運悪く表舞台で花咲くにはダメだった人生みたいです。

昔に監督した「ラッシー」とか前作の映画「マイマイ新子と千年の魔法」も良く出来た作品だったようです。見てないのですけど。

しかし世間一般には知られず、そしてこの「この世界の片隅に」の映画化で世の中の名を、やっと示すことになったのです。

かなり遅咲きになりますが、元々才能があった人だったのですね。じゃないとこの映画など出来ないだろうから、言ってみれば当たり前だけど。

これは「運が悪かった人の物語」でもあったのです。

その人が「運が悪そうだけど、実は運が良かった人」の映画「この世界の片隅に」を作った事になる。

運が悪いと思えることも、生きていれば、運が良いことにに繋がっていた、という人生だったすずさんの物語を描けるのが、同じく運が悪そうで、最後は良かったのかも? と思える片渕さんしかいなかったかもしれない。

まさしく「この世界の片渕に」を裏でやっていたのでしょう。

人生とは面白いですね。生きていければね。

 

ちなみに片渕さんはこの映画を作る時、持ち出し(お金を自分で払う)で初めたようです。

嫁も監督補で係わっています。

そして「貯金が45000円になった時は、流石におののいた」と言ってることが面白いですね。嫁も参加してるので、片渕家族の貯金が四万五千円です。

片渕さんもまた、庵野さん見たくキてる人だったのです。

それら才能のある人達を変な方向に導くのがジブリです。

本当、宮崎さんも鈴木さんも、屍の上で出来上がっていることを理解してるのでしょうかね? (だからイクニさんには「美しい棺」だと言われてしまうのです)

(23年11月、訂正。美しい棺はジブリではなくガイナックスの方でした。勘違いですごめんなさい)

 

さて内容に移り、前ここでの感想ブログのときだと気が付かなかった、細かな事を書きます。

 

富野さんが言ってた事で「呉を選ぶのはセンスがある」とありました。確かにそうです。

この距離感、これがこの映画の距離感ですね。

ちょっと話を戻し、これも富野さんが言ってたけど、すずの実家は広島の海の方だったのですね。もっと遠くかと思ってました。これはこの頃の距離感だとこれでも遠くに思えるということでもあります。自動車などが発達してないからね。

そして、呉と広島の距離が20キロだと、片渕さんは言ってました。20キロを自分ちあたりの地図で見てください。思ったより近いですね。

しかしこれも、昔はもっと遠くに思えたことでしょう。山とかが間にあるともっと遠くに感じるのもあります。道なりだと実際はもっと遠いしね。

これは原爆が落ちた広島を、20キロ位離れてみた人のVRバーチャルリアリティ)映画でもあったという事です。

旦那、周作の実家は呉でも山の方です。これも同じで呉の町を俯瞰で見てる場所にある。これも空襲にあった呉を俯瞰で見てるVR的映画であったということです。

これはこの位の距離だと、今の人でも感覚的に乗れるという事です。

これ以上近いと、昔の戦争に近すぎてリアルすぎ、逆に感覚的には遠くに行ってしまう。

ネット動画で爆発とか車の事故とか、身の回りでない大きな事故映像などは、逆に映画の映像の様に見えるのと同じです。逆に実感がなくなる。

だからこの位の広島からの距離、呉で正解だと言うことであり、しかも呉れさえも俯瞰で見るくらいで正解だった、という事です。

これで現在見てる人に、実感がわくのです。

 

呉には海軍の根拠地の一つ、呉鎮守府があります。そこで働くのが旦那の周作です。

北條家の家は呉にあります。しかも山の方です。

段々畑などがありますが、あまり効率が良いような広さはなさそうでしたね。

だから近代になると「畑仕事ではやっていけないだろう」となったと思うのです。

そうすると勉強をして働きに行ったほうが良いということになる。

せっかく呉だし、軍港や工場があるからと、周作の父は勉強してそこで働くことにしたと思うのです。

その息子周作も同じく畑をやるわけには行かないから勉強して、呉の大きな働き場所、軍で働くことにするのだが、呉に鎮守府があったのがミソです。

鎮守府があり、そこで働く人が必要です。

今みたく遠くから車や電車で働きに来る時代ではない。

だとすれば近くに住んでいるものを働かせたほうが簡単です。住まいを新たに用意しないで済むからです。

だから周作は呉鎮守府で働くようになり、だから戦争に駆り出されなかったのです。だから生き残った。

これはただの運です。

北條家はあまり良くない土地である山の方に家があった。だから働きにでなければならず、しかしそれ故に戦争に行かず、それで生き残ったのです(爆撃から逃れられたのも山の方だからです)。

良い悪いではなく、たまたまだった、という話です。

 

すずはどうか?

彼女も広島から知りもしない呉に、知りもしない人の所に嫁に行く。

しかしそれで生き残ったのです。

すずは右手をなくす。姉の子を死なせてしまう。これも運です。

当時、原爆が落ち、周りから人が沢山広島へ助けに行ったようです。

すずも家族がいたから行きたかった。しかしけが人はダメだと行けなかったのです。

後半、妙にゆっくり歩く近所の人が出てきます。あの人は11月なのに傘を指している。かなり体が悪いのです。あの人が広島に助けに行った近所の看護婦だそうです。この時の前の映像をよく見ると出てたはずです。それで被爆してしまった。

叔父も体が悪く寝込んでいた絵もありました。これも広島から戻って体調が悪いと言っていて被爆しました。

すずの母は遺体すら見付からず、父と妹は探しに行きます。そしてすぐ父はなくなる。妹も体を壊してます。これも被爆が原因ですね。

すずは助かったのです。右手がなかったからです。

ではこの意味は? これも、たまたまだということです。そして何が運が悪いのか良いのか? なんて後にならないと分からないと言うことでもあります。

それが人生と言う話です。

 

細かなことで、すずが右手をなくした時、妹が見舞いにきました。

そして最後に「広島に帰っておいで、来月の6日は祭りだし」みたいな事を言っています。

8月6日に原爆が落ちるのは見ている人が知っている情報です。それを予感させるのです。

その後周作に「お前といて楽しかった」と言われ、すずは帰ることを少し躊躇したのでしょう。

それに加え、病院がとれなかった。だから8月6日まで帰れなかったのです。だから助かった。

これもそうで、右手に助けられた、という事でもありますし、しかし実際は周作が少し止めれて時間稼ぎが出来たということだと思います。

何がどう効いてくるかは、分からないと言うことです。

 

片渕さんのドキュメント映画で言ってた事そのままなのですが、最後橋の上で周作とすずは話します。あれはどこか?

ドキュメント映画ではそれを片渕さんは調べ上げ、広島の北にある橋だと断定してました。手すりが傾いているなどが理由でした。

そこから南を見て周作が「変わってしまった」と言ってるが、変わった町並みは見せません。

しかしそこから南を見たら、ちょうど原爆ドームの方向を見てることになり、ドキュメントでは当時の焼け野原になった写真を見せながら「この風景を見ながらのセリフだった」と言ってました。

そう考えると深い言葉なのだなと分かる、ドキュメントの説明でしたね。

 

ドキュメント内で、片渕さんへの質問で「最後の女の子はなんなのか?」というがあって、その答えも見事だったので書いておきます。

あれは広島の名もなき親子です。そして女の子の右側に母は座っていた。そしてたまたま右側に原爆が落ちたのです。

だから母の右側は腕もなくなり怪我をしている。しかしそれで左側の子供は助かる。

最後左手で子供の手を握って歩くのが母でした。

すずの方は、姉の子を左手で握っていれば、子供は助かったのにと後悔します。

つまり、被爆して死んだ母は、もう一人のすずだと言うことです。

呉に嫁に行かなければ、いたのは広島だったことでしょう。

そして右側にいて子供を守った、もう一つのなかった可能性のすずです。

その運悪く死んだ、しかし子供は助かった。この運が悪かった人の事も書かなければならなかった。そこに差はない。運からの結果に意味はない事を描かなければならなかったのです。

すずは運が良かったのです。生き残った子供も運がよかった。

ただそれだけです。良い悪いではない。それでも、戦争が終わっても、生きていく、ただそれだけです。

 

最後に、初めの人さらいのバケモノの話です。

最後にまた出てきて、ワニを背負っていることから、あれは兄だと言うのが答えですね。死んだ兄が幽霊として戻ってきたのが最後です。

では初めの話は何だったのか? もちろんすずの妄想ですが、なぜあの妄想なのか?

たぶんすずは迷子になったのです。お金を落としたかも知れない。

だから結局兄がむかえに来たのでしょう。

しかしすずは夜になったので寝てしまったのです。だから記憶がない。

そして兄にせおられて帰ったのでしょう。

これは何か? 実は兄を嫌っていたすずでしたが、兄の存在も悪くはなかったのです。

すずが気が付きもしないで助けられていた、という話です。

そして嫌いなはずの兄だが、何処か南国で生きていてほしいと思い、それがワニと結婚して生きているという妄想につながる。

好きも嫌いも、存在が良い悪いも、簡単な話では無いという事です。

 

そしてこの迷子になった時にあったのが、子供の周作ですね。

迷子を警察に送り届けたのか? 自分も迷子になってたのか?

分かりませんが、ここですずにあい「面白い子だな」と記憶に残る。

その後大人になり、リンを嫁にしようと思ったが、家族に止められた。

「誰かいないのか?」と家族に言われ、やっと出てきた気になった子が、子供ころあった面白い子、すずだったのでしょう。

家族は「ああそれで良い」と、なんでも良いと思いながら、探しあてたのがすずだったのです。本当に何でも良い代わりだったのです。

しかし運がよく、幸せになったのがすずです。

何が運がよく、何が運が悪いのかなんてわからないという話でした。

 

この事を片渕さんが描く。

運が悪かったのか? 良かったのか? 分からない人が描くのです。

人生って、時には、面白いものですね。

 

 

23年8月7日 少しなので、ここにちょっと足します。

 

今年も夏です。

この頃は原爆を思い出す時期ですね。

 

言い忘れていた事として、簡単な事だけど、

周作が竹刀を庭で振っているシーンがあります。その時落ちてきたビラをまるめていたすずが、周作に向かいほおる。周作は野球のように打とうとするが、空振りをして、一回も撃てませんでした。

この時に、確か周作は「またバカにされる」と言っています。つまり運動音痴であり、それを仲間に馬鹿にされているのです。

このシーンはなにか?

つまり、周作は運動音痴だったので、前線に送られず、後方に残される事になったのです。それで生き残った。

 

司馬遼太郎が戦車部隊に配属になったようですが、運転が下手だったようです。

たぶんそれで前線に送られず、だから生き残ったのです。

その後、戦車部隊と言う日本だと虎の子の部隊だったので、戦う事もなく、本国に戻される。

これは前にソ連と戦い、陸軍だと大きく負けたから、簡単に出しても無駄になると思い温存されたのだと思います。ソ連やドイツみたく強ければ、戦車兵など、まず始めに送られた筈だからです。

しかも本土決戦になるぞとなったから、本国に戻された。

しかも原爆が落とされたから、本土決戦も無く、だから司馬遼太郎は生き残ったのです。

これに意味はありません。運が良かったのです。

 

水木しげるは前線に送られました。

皆が寝てる時、監視役として見ておけとなったらしいのですが、寝てしまったようです。そして敵機が着たが、水木しげるは気が付かず、撃たれ鷹爆撃されたかして、寝ている上官は皆死んだようです。

その後、水木しげるは戦闘で手を失う。

しかし手がないせいで後方に送られたようです。だから生き残ったのでしょう。

これも、ただの運です。

 

美輪明宏さんは長崎にいて、窓の外が光ったと思ったら、ドンっという音と共に窓ガラスが割れた、と言ってました。

美輪さんの父は、戦争で仕事が上手く行かくなり、確か銀行か何かに勤め直したのだそうです。そしてこの時、さぼって釣りをしていたようです。それで原爆から生き残った。

 

他にも有名人ではない人の戦時中の話が、夏には沢山出て来ます。

この人らの話は、もちろん話す理由がある物です。つまり周りで人が死んで、しかし自分は生き残った話をします。

皆共通している所は「生き残ったのは、たまたまだった」と言う話です。

ちょっと前にいた人、隣にいた兄妹、家にいた家族、それがたまたまそこに居た為に、死んだ。そのちょっと横にいた自分は生き残ったのに。

これに意味は無いのです。

 

たぶん原作者のこうのさんは、沢山の話を聞いたり読んだりして、これにたどり着いたのでしょう。

つまり、生き残った人の話は、「すべて、たまたま生き残った」と言う話だった筈なのです。

これを誤魔化さずそのまま描こうとしたのでしょう。

それに「人間万事塞翁が馬」です。何が良いのか悪いのかなど、後にならないと分からない。

こうの史代さんは、美化しないで、これらをちゃんと描く事で「本当の人生の物語」になったのです。見事でした。