号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

老子を見るのに大事なこと

老荘思想について書こうと思いましたが、今回は老子についてのみ書きます。

知ってる人向けですので、内容は書きません。あしからず。

 

毎度おなじみヤングサンデーというネット動画が、ユーチューブでも無料分が出てきます。

今回期限付きで老荘思想について、2016年頃に話した内容の動画が出てきました(たぶん今はもう出てこないけど)。

それを見て気になったので(気に入らないので)自分でも調べて見ようと思った次第です。

 

しかし大事な要素はネットで言ってくれただろうし、だからあまり本を見る気がおきません。

何を言いたいのかは大体は分かったし(方向性は)、大事なのは言ってる内容より、それをどうとらえるかの方だとも分かったので、見る必要もないと思ったのです。

でも何も見ないで反論もないので、アマゾンで簡単な本でもと、探しました。

そこでNHK「100分de名著」という番組のテキストになるのですかね? それで老子のを見つけ「その程度で良いや」と思い、買いました。

この番組は見たこともないのですが、このテキストは何度か買ったことがあります。大事な所をダイジェストで書いてあるので、素人だとこの程度で良いでしょう。

そして買う前は「老荘」かと思って買ったのですが、買ってみたら「老子と孫氏」の方でした。よく見ろと言うことです。

でもまあ孫氏でも面白いので良いかと思いすが、私は孫子兵法書の方はもう昔見たので、もういらなかったのですけどね。

老子の残した文も短いですし、孫氏の兵法書も長くはないので、だから一緒にやったのかな? と思います。

この2つのダイジェストだとかなり濃くなるので、見てない方はこのテキストくらい一度見てもいいかと思います。内容もよく出来ていたと思います。

 

どうもネット動画を見ると、山田玲司さんという方は老荘思想が好きそうです。

そして孔子は違うと思っているようです。

まあこの動画が数年前なので、今はどう思ってるかは知りませんけど、この時言ってた事は間違っていると思いました。

 

山田さんが他の動画で、何かの話をしてる時「そう言うと左よりだと言われる」という事を言っていました。この人の発言は左翼よりに聞こえるからでしょう。

「しかし右とか左とかそういう問題ではない」と言うような事も言ってまして、その通りです。

その考えは右翼だ、とか、左翼だ、とか言ってる人がおかしいのです。

もう99%以上の人は、極端な右翼も左翼も良くないとは思っているのです。それはもう分かっている。

話している事のほとんどは、真ん中が正解なのだが、それのもっと右寄りか? もっと左寄りがいいのか? という「度合い」の話をしてるのです。

 

私はずっと「世の中の問題のほとんどは量の問題だ」と言っています。

つまり右から左まで無段階でグラデーションのように連なっていて、その真ん中ら辺が正解だとして「今は右に寄りすぎているので、よりはもっと左が良いだろう」とよく言っているのが山田さんです。ちなみに私もそうです。

日本の、皆が衣食住を十分得れる国力がある状態で言えば、今は右によりすぎてます。それは必要がない「差」を生み出す事です。

「差」は必要だが、今の大きな「差」は必要がないと言っているのです。

 

話は戻し、この真ん中ら辺が大体正解という事は、ほとんどの人が知っています。山田さんも知っています。

しかし「ほぼ全ての事が量の問題であり、だからほぼ全ての問題が真ん中ら辺のどこかが正解」という事実を理解してない人が、ほとんどです。

山田さんも「右翼左翼ではどっちが正解と言う話ではない」と分かっているのに「全ての事がどっちが正解ではない」と言う事実は、たまに見落とすます。

 

さて老荘思想に戻ります。

山田さんは老荘思想こそが正解だと思っていて、孔子儒教は好きじゃないようです。

しかし「正解はどっちか?」ではなく「その間くらいが正解」か「ケースバイケースで両方正解だ」と気がついてないのが山田さんでした。

これに限らず、ヤフーニュースなどでの一般人のコメントでも「どっちが正解だ」と言っている人が多い。いや多すぎる。

考える基本中の基本「量の問題だ」というのを理解してないからです。

どっちではなく、正解の要素は、大体両方にある事は理解しておきましょう。

そして大体中間くらいが正解になるか、ケースバイケースでその時々で正解は入れ替わると言う事でもあります(ケースバイケースでも割合として表した量の問題とも言えます。まあ無理矢理感はありますが、関数化した量の問題だとも言えるということです)。

 

この本「100分で名著」では端的な、良い表し方が乗っています。

「道」という言葉が老子にも孔子にも(孫氏にも)出て来るのですが、違う意味で使われています。

「道」が大事な物(事)だと言うのはどれも共通です。

この道の表し方を「儒教では」(つまり孔子では)「人間学」ととらえている。

道を「道教では」(つまり老子は)「自然科学」でとらえている。

とあります。

これは「道」の説明ですが、孔子老子の考え方の基本を表してとも言えるのです。

つまり孔子儒教は「人間学」であり。老子からの道教では「自然科学」を唱えていると言う事です。そしてこれが全てです。

(ちなみに孫氏の兵法書のことも「人間学」と書いてありました。そうでしょう)

 

動物の生きている所や生き方を、普通人は自然ととらえると思います。

そしてその自然の中に人間もいるのです。動物の中に人がいるがごとしです。

つまり大きな輪で自然があるとすると、その中に小さな輪として人があるのです。

しかし人は、もはや動物と同じではなく(同じように裸ではもう生きれないでしょ?)人なのです。

だから自然科学の中にある、小さな輪である「人間学」が人には大事なのです。

だから孔子や孫氏の人間学が大事になるのです。

 

しかしそれでも人は動物でもあるとも言えます。

大きな輪でみると自然科学の中にも人はいるので、自然科学的な見方をしても通るのです。

これはどの程度の距離から見るか? と言う問題であり、どの距離から見るのが今は大事なのか? と言う問題だと言う事です。

 

話を少しヤングサンデーに戻します。

ネット動画で奥野さんと言う方が言ってたのが「老荘思想は極論だ」と言う事と「これを言った時代背景が大事だ」と言う事です。

彼はせっかく大事な事に気が付いているのに、それをまとめられてないのが残念です。もっと前もって用意しておけばいいのにと、いつも思います。即断で言える人などいないからです。言える人は元々用意があるのです(狙って用意したのではなくとも、前に考えた事があるとかの用意も含まれます)。

とにかく、この「極論」と言う事と「時代背景が大事」と言うのは大事だと言う事です。

 

極論だったのは「その時代にとって大事な事を強く言った」という事です。

曲がった針金を真っ直ぐにする時は、反対側に一度曲げるのです。

例えば小学生が家で勉強ばかりして遊びに行かなかったとしたら? 「息抜きに遊んだら?」とか「たまには外に行ったら?」とか言うでしょ?

だからといって「ずっと遊んでいろ」とか「ずっと外にいろ」という意味ではなく、勉強ばかりしている人に反対の事を言ってるだけです。これは言わなくても皆分かっていますよね?

孔子老子もたぶんそうです。言わないけど分かっているのです。

極論を言ってるけど、その時代だとそう強く言うべきだから言ってるし、それは偏っているし極論を言っている事は、分かっているはずです。

彼らの弟子達も、まともなのは分かっていた事でしょう。

それを分からなく、その言葉を額面通りに受け取るのは、ただの馬鹿です。

 

孔子はあの時代に合うように「礼」をとなえたのだと思います。

昔はつべこべ言わず、親を大事にしろとか、目上を大事にしろなどで良かったはずです。それで上手く行ったのです(それ以上言っても分かりずらいし)。

もちろんそれは絶対ではありません。ケースバイケースです。しかし「ケーズバイケースなのは、分かっていなくてはいけない」という前提で孔子達は言っていたと思います。

 

しかし額面通りにただ受け取る馬鹿がいるのと、それを利用しようとするおかしな為政者が、いつの時代も必ずいるのです。

戦前の日本も儒教を強く教えてましたね。だから儒教とは危ない教えだという間違った感覚が日本に残りました。残念です。

孔子の時代ではまかり通っていたやり方、儒教を、時代が変わったのに、上手い事言って下の者を従わせようとするのに、歪めて使った奴らがいたという事です。

孔子自体が生きていれば「それは使い方が違う」とか「今の時代にはあってない」とか「それは上の者の行いも含まれていて、それを無視している」などと言っただろうけど、もういなかっただけです。

だから後世の人が変えて行けばよかったのに、変えていけなかったのが悪いのです。

 

老子もそうでしょう。

孔子の考え方で間違った使われ方を仕出し、それが嫌になり、それの反対としての老子の教えが流行りだしたのでしょう(彼らが生きてた時代より後世の事です)。

あれも反対側に強く曲がった針金でしかないのですが、それでもすでに反対に曲がった針金をまっすぐしたい人達は、そのまた反対の力に乗っかったのでしょう。

だから極論なのです。

そしてだからあれを鵜呑みにしてはいけない。

あれは自然科学であり、人がそのままやっていくには無理がある方法です。

老子には「何も学ぶな」とかありますが、あれは寺山の「書を捨てよ」と同じです。

寺山はあれを言った後でも読書家でした。つまり「今は書を捨てよう。今日は街へでよう」だったのでしょう。

「何も学ぶな」という老子だって文字がかける。当時だとかなり勉強した者だった筈です。だから言いたいのは「これ以上は学びすぎるな」とか「学ぶより大事なことがある」というような意味でしょう。

あくまで学びすぎた人達がいう「学ぶな」であり、何も学んでいない人に向けた言葉だと思っている人は、頭が悪いのです。

 

他の老子の考えもそうで、あくまで人は人である前に動物なのだから、その基本を忘れないで行動しろ、と言うような程度の意味です。

つまり例えとして「法律」が「人間学」だとすれば、「憲法」が「自然科学」です。

法律がおかしくなり、今の時代に合わなくなったら変えるでしょ?

ではその時は何を前提として法律を決めるか? それが憲法でしょう。

だから人間学の「儒教」がおかしくなったのなら変えるべきだし、その時は自然科学である「道教」を頭に置いて変えるべきだという事です。

(ただ憲法は上位の存在だけど、道教は極論であり完全な上位ではないのは注意です。つまり道教に沿って無くても人として生きるには必要だからそれでいい、と言うこともあるのです。それが「勉強はしろ」と言う事だったりします)

 

山田さんは「儒教は上手くいってる時は良いけど、そうじゃない時はどうするんだ?」と言ってました。これも今言った事と同じです。

つまり、上手く行かない時は内容の方を変えるべきだが、それの前提としてもっと大きな輪を見て考える方が良い、という事です。

 

そして山田さんの間違いも、ここに現れています。

儒教は「上手くいってる時は良いけど」と言ってましたが、それは道教も同じです。上手くいってない時に「自然と共に生きよう」では生きていけない。

つまり他国から攻められるような時代なら、自然と共に生きて行ったら攻め亡ぼされてしまいます(トルストイの考えのようには上手くはいかないでしょう)。

この辺の事は、老子自体も分かっていただろうと思える文でしたね。

だから老子の言葉で、それまで言ってたのと違うと思える内容も、途中出てくるのです。

この辺の事から、老子も「臨機応変にとらえて自分で考えてやれ」と思っていたのでしょう。

 

老子孔子も孫氏も間違っていません。

ただ「どの時もそれが合う」と言うものでは無いのです。

それが合う時はいつで、どういう時か? を自分で考えて、その都度当てはめて変えていく、それが大事なのです。

この臨機応変の事は、彼ら自身も水で例えて言ってますね。

言葉を額面通りに受け取るのは、ただの馬鹿なのです。

だから臨機応変に自分で決めて行くのが正解なのです。

 

老荘思想でも孔子でも孫氏でも、大事なのは今言ったことです。

臨機応変であり、ケースバイケースであり、水であれと言う事です。

それさえ頭にあれば「内容は大した事ではない」と初めに言った私の言葉が分かると思います。

言ってる内容自体は、ためにはなるが、一つ一つは些細な事なのです。

今の時代、些細なこれらの事は、姿形や言葉を変えられ、ドラマとか誰かの名言とかそれこそ自然科学とかから、既に伝わって来てるのです。

アンテナを張って人生を送った人には、もはや伝わって来ているものであり、だから内容は大した事ではなかったのです。