号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

コミュニケーション

庵野さんがエヴァの舞台挨拶の時、何度も客に頭を下げてました。

(シンエヴァでかなり客が入り、大成功だと分かった後での舞台挨拶の事です)

あれが気になってたのですが、最近分かった気がしたので書きます。

(もちろん全然間違ってるかもしれませんけど)

 

何度も言ってるけど、大事なのでもう一度言います。

「物語は誰の為に作られているのか?」という事です。

もちろん「客の為」であり、細かく言うと「客を喜ばす為」であります。

なのに「自分の為」の作り出すのが作家という生き物です。ほぼ全ての作家が自分の為に作り出すので、「人」と言う生き物自体がそういうものなのかも知れません。

 

違うというのなら「この作品は客の為に作られてないし、見ても何も面白くない」とうたって公開してください。

それが出来ないと言うのなら、それは「嘘つき」です。

嘘を付いてないというのなら「本屋」と看板が出てて、本が売ってない店のようなものです。「本屋というのはただの店の名前だよ」という嘘です。

皆が「物語というのは、客を楽しませる物だろう」と認識してる世の中で、そうしないのはただの嘘つきなのです。

 

若く始めた頃は、作家や監督は力がないものです。

だから部数などの売上を気にしないと生きていけない。

だから「しょうがなく」媚を売ります。

なので客が願うものを、しょうがなく入れるのです。

それで成功して、しまいに力を得、そして好きなものを作らせてもらえる時がくるものです。

そして「やっと好きに出来る」と本当に好きなものをやる作家がいます。

その結果「クソつまらない作品」を作り上げ、皆から「限界だな」「落ち目だな」などと言われ始めるのです。「天使のたまご」ですね。

 

では、日和るのが正解か? と言うとそうでもないのですが、そのバランス感覚が分かってない人がほとんどです。

なのでこのバランスを、分かりやすい例えで言います(ここで何回か前にも言ったし、そもそも例えでも無いのだが、そう思って聞くと分かりやすいと思います)。

 

物語は「コミュニケーション」です。

手紙でも、ビデオレターでも一方的だがコミニュケーションでしょ?

手紙でも相手の事を考えて書きます。だから一方的な物語制作でも同じで、コミュニケーションが大事なのです。

誰かと会話をする時、自分の事ばっかり言って、相手の事を何一つ聞かなければコミュニケーションは失敗です。

相手が嫌がっているのも構わず、一方的に言いたい事を言ってたら失敗なのです。この事では、多くの人は分かってくれると思います。

では、相手の意見だけを聞いてうなずくのはどうか? もちろんこれもコミュニケーションは失敗です。

自分は違うと思ってるのに、相手の意見にだけ合わせているのはコミュニケーションではないですよね? これも多くの人は理解してると思います。

相手を怒らせないように、嫌がらせないように、気を使いながら、しかし自分の意見も入れていく、これがコミュニケーションでしょう。

つまりバランスが大事なのです。多くの問題で大事なのは「質」ではなく「量」なのです。

 

物語もそうですが、こちらは商売なので、更に相手を喜ばせるのが大前提です。

しかし客だけが喜ぶものを入れてたら、自分がしたい事、言いたい事が入れれない筈です。

その中で、客の様子を見ながら、自分の意見ややりたい事を入れていくべきなのです。

だからこそ物語制作は「コミュニケーション」だと思い、作ることが大事でしょう。

 

では「相手の事を思ってるから、嫌がるものでも入れていく」のが正解か?

これもそうで「量」が問題です。入れ過ぎたら嫌がって聞いてくれません。

しかし相手の「為になるもの」を入れれるのなら、そうした方が良いのと、「相手の為にならないもの」は、入れ無いようにするべきです。

相手の為にならないものとは「特に子供相手で」感覚を惑わすものです。

極端に言えば「盗みも暴力も構わない」とかです。

もう少し分かりにくいので言うと「家出もたまには良い」とか「しょうがなく銃を向けてもいい」とか「王子様が白馬に乗っていつか君のもとにも来るよ」などの事です(だから天気の子は駄目です。そしてウテナの方は幻の嘘の王子様否定でした)。

 

ただ説教臭くなっても誰も聞いてはくれない。

人は信用され、初めて聞いてくれるものです。

先生でも親でも物語上でもです。

だからまずは信用されるか、好まれないといけない。

それが出来て初めて人は、話を聞いてくれるのです。

例え正しくても、嫌いな相手の話は誰も聞いてはくれないのです。

 

それに相手の為だと思っても、それが本当に相手の為になるかは別です。

例えば、親が「勉強すれば将来が楽だから、遊びなどに行かないで家でずっと勉強をしろ」と子供に言ったらどうか?

ある程度はともかく「ずっと」だったら問題です。たぶんろくな大人にはなれない。そしていつの日かその子は親を憎む事でしょう。

しかも、そういう時のほとんどは親が「子の為」などと言いながらもそれは嘘で、「自分の為」にやらせてる場合が多いので注意です。

人は自分にも嘘を付けるので、「自分の為」のやらせてる事すら気が付かない人が多いのにも注意です。

 

たまに心から本当に「子の為」を思っての行動の時も、あるにはある。

しかしだとしても間違っていて、子の為になってない時もある。それなら失敗です。

本気で相手の為であっても、間違ってたらただの失敗なのです。

ただの失敗を侮ってはいけない。例え悪い人でなくても、不器用な医者が手術をしたら「間違って殺しちゃった、テヘペロ」ではすまないでしょ?

 

ただこれも面白いのは「本当に心から他人の為」と言うのは、長く一緒にいると伝わるのも事実です。

さっきの例で言うと「子供の将来の為」と本気で思っていたのなら、それで失敗して将来子供が憎むとしても、どこか憎みきれなかったりします。

そしてその気持ちが子に伝われば、逆にどこか愛されていた感じは伝わり、悪くない大人に育つ「時」もあります。

 

さて、これらを元に物語について言っていきます。

私が「天気の子」が嫌いなのも、「東のエデン」が嫌いなのも、「ぽんぽこ」が嫌いなのも、最近の細田作品が今一なのも、監督が自分に向かって作ってるからです(東のエデン細田作品は、ちょっと気をつけたらなんとかなった気がするから、残念ですけど)。

「ファイブスター」でロボットを変えたのもそうです。自分の為にやっているから嫌いです。

そう言えば「アドゥレセンス黙示録」も自分に向かって作られてます。

風立ちぬ」が嫌いなのも自分擁護の遺書だからです。

こう言うのが「作家性」だと思っている人は、ただの酔っ払いです。

 

TV版の「Zガンダム」の終わり方は、子共の為だったのかも知れませんけど、失敗だったと思います(子供を夢から覚めさせようとしたのでしょう)。

さっきも言ったように失敗は失敗です。例え意味や意義があってもです。

そしてTV版「エヴァ」です。これも失敗ですが、たぶん富野さんが悪いのでしょう。それにイクニさんも悪いのでしょう。

 

エヴァ」も同じ様に子供の為だと思いやったのだろうけど、失敗です。

まず第一に「子供の為」と言うのが伝わってない。伝わらない愛情は意味がない。あれでは監督が諦めたか、客を馬鹿にしていると思われてしょうがない。

山田玲司さんも言ってたけど「伝わらなければ意味がない」のです。

例えで言えば、子供が親に嫌われて育ったと思ったのなら、そうなのです。実は愛されていたとしても、嫌われていたと思い、トラウマを感じ育つのが事実だからです。

 

庵野さんは旧エヴァ後、世間に幻滅したのでしょう。

世の為、人の為に命がけでやったのに、否定されたからです。

しかしあれは「見てる人達の方が、否定されたと思った」作品です。だから二重に失敗でした。

 

面白いのは、さっき言ったように「近くもの者には誠意や本気は伝わる」という事です。たとえ失敗でも気持ちは伝わる。

私は前は「庵野さんは、どうしてあんなに皆に好かれているのだろう?」と謎でした。あんな旧エヴァを作った人なのにです。

しかし今では分かります。近しい者には伝わったのですね。庵野さんの本気が伝わってたのです。だから宮崎駿さんやイクニさんに好かれているのでしょう。

ただこれもさっき言ったように「近しい者」だから分かるものです。殆どの一般人には伝わりません。これも事実なのです。

一般人の多くには、庵野さんは旧エヴァで「逃げ出した」か「客を馬鹿にした」と長年思っていた事でしょう。

 

そして新劇場版エヴァです。あれで皆に「やはり面白いな」と思わせます。

しかしまた「Q」で同じ事をやって来たように見えます。また客を馬鹿にしだしたか、自分勝手に好きな事をやりだしたか、諦めたかしたように客には思われてしまった。

そしてそれもまた事実です。例えそうでなくて、一生懸命作ったとしても、伝わらなければ意味がない。

多くの客が「旧エヴァみたく、またやりやがった」と思ったのなら、そうなのです。物語は映像で見て、それから伝わるものが全てだからです。

 

ではラストの「シンエヴァ」ではどうなったのか?

あれは受け入れられましたね。だからかなり客の入りが良かったし、評判も良かったです。

しかしよく考えたら、あの作りは「皆が喜ぶような内容ではないな」と思えてきました。

気にいらないという意見も少なからずあり、そう思われてもしょうがない作りではありました(アスカとシンジがくっつかなかったり、新しい要素がなく、ゲンドウなどの終わり方がありきたりだったり)。

しかしあれで受け入れられた。そう思うと私個人も「世の中、捨てたものじゃないな」と思えてきました。

あれは皆が喜ぶ内容ではなかった。庵野さんも作っていてそう思った筈です。

しかし実際は、内容から客に伝わりました。

本気でやった事、客を馬鹿にしてない事、結末を出し終わらせようとした事、などが客には伝わったのです。

「例えそれが望んだ場所ではなくても、本気が伝わればその内容を受け入れる」のが、世の中の人達だったのです。

これは私には意外でした。もっと自分勝手かと思ってましたが、世の中の多くは物語を楽しむ事、相手の意見を受け入れる事に対して、もっと大人になっていたのですね。

 

そして庵野さんもそう思ったのではないのか? と思うのです。

エヴァでも一生懸命やったが拒否された。今回も人々は「自分が好まないと否定してくる」と思ってたのではないのか?

しかし世の中に受け入れられた。

あれは「ちゃんと伝わる物を描けば、世の中はそんなに理不尽じゃない」と言う証拠です。

だから庵野さんは頭を下げたのでしょう。

今の世の中の客のレベルに参ったと思ったのか? もしくは前は自分が間違っていたと思ったのか? は分かりませんが、それらの気持ちから何度も頭を下げてた気がするのです。

シンエヴァでの事は、「本当に捨てたものじゃないな」と世の中に希望が持てる反応でしたね。

 

さておまけとして、だから私はアニメ「マギレコ」が嫌いなのです。

結局終わってみたら、作者らが自分に向かって作っていた物語でした。

これほどのマギレコ製作者が知っている者たちが間違って来たのに、まだ気が付かないのか? いつまで同じ間違いをやり続けるのか?

それは、今の庵野さんもイクニさんも富野さんの事も、理解してないからだと思えてしかたがない。

あれでは一年経って誰も覚えてない物語でしょう。それでいいのか?

「喜ばす」のではなく「どうだすごいだろ」と後で言いたいが為に作ってた気がしてならない。

誰に向かって作っているのか?

この当たり前を、もう一度思い出してほしいものです。