アニメ「フリクリ」見ました。感想、ネタバレです。
当時ガイナックスにいて、「トップをねらえ!2」の監督をこの作品の後にする鶴巻さんが監督です。*1
そして脚本が「トップ2」「ウテナ」「スタードライバー」などの榎戸洋司さんですね。*2*3
だから何かしら暗喩があるのは間違いがない。ただよく分からない。
たぶんもっとあとの作品より、漠然とした暗喩が入っているのでしょう(たぶんですが)。
しかし物語としたら漠然とした暗喩のほうが普通であり、概ね正解な気がします。
「スタードライバー」や「ピンドラ」のように、全体に元になる物がある作りのほうが珍しく、そうなると何をやりたいのか分かりづらくはなるので、あまりやらない方いいですね。*4
まず大事なのはこれが作られた年です。
この作品が2000年です。
テレビ版「エヴァ」が1995年、旧映画版「エヴァ」が97年。
2004年が「トップ2」
2007年から新劇場版「エヴァ」ですね。
この作品、よく考えるとエヴァに似てます。
もちろんガイナックスで、庵野さんも少し絡んでいるようですし、鶴巻さんもエヴァに対する思いがあった事でしょう。
ただそれよりも似てくる事情が他にあると思っています。
やっている事が「オタク事情」の事であり、だから鶴巻さんやガイナックスの「自分達」の事になり、「今の自分達とともに今までの自分達」の事になるので「子供の頃の自分と子供のような今の自分」にもなる。
これがエヴァと同じなので、似てくるのでしょう。
ちなみにだからやってる事が「トップ2」にも似てくるのです。あっちもオタク事情の話だからです。
旧映画版「エヴァ」つまり「まごころを君に」の最後はやはりおかしい。
アニメ否定な話のようで、アニメ全肯定の話になっています。
実際の世界は壊れ、アニメの象徴あすかと自分の象徴しんじ君が二人だけが残るという、アニメに首までつかったまま終わった不気味な話に見えます。
そうなると、何を言いたかったのかわけが分からない話になってますね。だったら普通のアニメとして普通に終われば良かっただけです。
(ただ言いたかった事はシンエヴァのラストの事でしょう。つまりアニメも否定はしなくて、折り合いをとって生きていくという事です。言いたい事は同じだが、作りがまずく伝わらない物語になっています)
その後に貞本版エヴァ、つまり漫画版エヴァではこのラストを自然な物にしましたね。旧映画版よりは、あっちの方が正解でしょう。
そして、これは旧映画版が気にいらなかった貞本さんが自分なりに変えたのかな? と思っています。
そして同じく旧映画版のエヴァのラストが気に入らないし、そもそもしんじ君の行動も気に入らない鶴巻さんがやったのが「フリクリ」になると思います。
同じく気に入らない者どうしだからか、漫画エヴァとフリクリのラストって、同じだと思いませんか?
やってる事は「よく分からないもろもろのうっぷんがあり、どう生きて行ったらいいか分からず、上手く生きていけなかった子供が、色々な問題に巻き込まれ最後は自分で行動することにより、何か小さな問題など、どうでも良くなり普通に生きていけるようになりました」という話です。
アニメなので大きな事があるけど、別に普通の問題でもいいのです。部活の事でも家庭の事でもよく、何かに巻き込まれ、最後は自分で行動すればいいだけです。
大きな事があると、小さな子どもの頃の問題などどうでも良くなるものです。だからこれでいいと思います。
ネットの感想で「ナオ太は何も手に入らなかった」という人がいました。でもそうなると漫画版エヴァのしんじ君もそうです。
でも、何か都合よく手に入ると、普通の現実の世界には戻れないのでこれでいいのです。
大事なのは「普通の生活が出来るようになりました」という、ただそれだけの事なのです。
これは一度終わった時の「ドラえもん」でもそうですし、「キテレツ」もそうだし「21エモン」もそうです。何か都合よくいい事が起きたりするが、最後は普通の生活に帰っていく、これが基本ですね。
大人は子供を、最後は夢の世界からは帰らさないといけない。だからこれで正解です。
そしてだから旧エヴァは失敗だったのでしょう。
さて、アニメの絵的なことで言うと、やってる事は「影響された好きな物の羅列」でしたね。鶴巻さんが人生で影響された好きな物を並べた感じです。
一度は好きな物をやってしまわないと、前に進めないのが「創り手」の感情だと思うので、まあいいとは思います。
ただ、たぶんですが、主人公に興味がない気がします。
主人公は自分の何かの分身です。だから自分に興味が無いのでしょう。
もしくは、物語にするために作られた自分の問題点の分身だったりするので、だから見るのが嫌なのでしょう。
だから他の事、他のキャラやロボットや設定は、魅力的だし力を入れれる。
しかし主人公は中途半端です。
もちろんわざとでもある。最後は普通に帰る自分なのだから、普通でなくてはいけないので、普通のつまらないキャラになりがちです。
でもそうなると、物語が弱くなります。これはよくありがちです。
もっと主役に寄り添うべきだと思います。気持ちがね。
嫌な自分、自分の問題点、それを主役にするので、どうしても監督は主役を見てない気がしてしょうがない。見たくないのでしょう。
そうではなく、主役を自分ではなく、自分のような要素を持った他人の子供と思い、温かい目でもっと見るべきですね。
そうなれれば「フリクリ」や「トップ2」のように「面白そうなんだけど、イマイチうけない作品」から脱却出来ると思うのですが、どうでしょうか?
見ている客にとって主役は、ある程度自分になるのです。それに目が行かないのは、自分に目が行ってないと客は思うのです。そこに気がつくべきです。
さて暗喩です。漠然としているし、あってるかは微妙なのもあるので、間違っていたら勘弁です。
主役、ナオ太は、概ね監督自身ですね。普通はそうなる。
ナオ太の頭からロボット等が出て来るのは、ロボット等は監督などの想像上の存在だと言う事です。
やってくる宇宙人、ハル子がまたピンクの髪ですね。だからアニメの象徴です。アニメの象徴だから、デタラメだが魅力的です。
アニメの事なので、ナオ太は最後好きだと認める。しかしアニメなので最後は消えてなくなるのです。だからいなくならなければならない。
カンチというロボット、顔がブラウン管ですね。だからテレビの事でしょう。だから皆を助ける。テレビは皆の心を助けていた、と言う事だと思います。
マミ美、ナオ太の兄タスクの元恋人だそうですね。たぶん自分の回りにいる(いた)実際の人かな? 自分ではなく、自分の兄をどこまでも好きだと思っているし、自分(ナオ太)の事はどこまでも兄の代わりでしか無いと思っている身近な人だと言う事です。
このタスクが変なのですが、まずはじめのもう一人の変なやつから、アトムスクです。海賊王だそうですね。「ワンピースか!」と思いましたが、もしかしたそれも入ってるかもね?
アトムだし、最後火ノ鳥のように飛んでいきます。だから手塚治虫でしょう。
だから最強のやつで、アニメの象徴ハル子は、結局どこまでもそれを求める。
手塚治虫の要素が、結局最強であるが、本人はもう亡くなっています。だから幻みたいな、象徴みたいな扱いで、話もしないで飛んでいく。追っても手に入らない幻のような存在です。
まあ手塚治虫だけではなく「手に入らない漫画やアニメの理想の存在」という事なのかもしれません。だから「ワンピースも入ってるかも?」と言ったのです。
では兄タスクは何か? これが鶴巻さんのもっと身近な創り手の先輩方の事でしょう。SF作家か漫画家か?
理想の存在(手塚治虫とか)よりは身近な存在で、良く出来た先人たち。身近な実際の人マミ美はその先人のファンです。「鶴巻さんなどの作ったものは所詮先人の真似だろ」と思っているのがこのファンです。
一見、鶴巻さんなどの作った作品を褒める。だからマミ美はナオ太に近づく。
だけどどこまで行っても兄の代わりです。だからタッ君とナオ太を呼ぶし、最後も兄の名を呼ぶのがマミ美ですね。
そして、ここから更に曖昧な考察です。
まあ、何か色々な意味があるようですが、ネット辞書で調べたて出てきたのが「follicular large cell lymphoma 濾胞性大細胞リンパ腫」の略称だそうです。
つまりリンパ腫の事ですが、これはなんなのか?
探して出てきのは石ノ森章太郎さんです。この人は種類はわからないけど、リンパ腫で亡くなっています。だからこの人の事かな?
石ノ森さんはSFを書く人だし、SFを読むのも好きな人だったようです。だから鶴巻さんの先輩に当たるという事でしょうか?
よく考えたら、兄タクヤは出てきません。変な作りです。だからこの元になる人はもう亡くなっている可能性がある。アトムスクこと手塚さんと同じです。
兄の面影を追うマミ美とアトムスクを追うハル子、その二人に子供なのでどこまでもかなわないナオ太、と言う物語でした。
つまり存在感は強いが既にいないし、ほぼ出ないこの二人にかなわない少年ナオ太の物語です。
しかし子供なので、かなわなくても良いと言う物語でもあります。「君の世代は次であって、先代と競ってもしょうがない」と言う物語です。
亡くなった先代に憧れながらも翻弄される、次の世代の物語だったのです。
「いなくなった」のが大事だから、ほぼ出てこない。だから元になった人はもう死んでいる。だからリンパ腫が意味のある言葉になり、だから石ノ森章太郎かな? と思えたという事です。
ただ石ノ森さんだけではなく、どこかのSF作家とかでもリンパ腫で亡くなった人もいるかもな? とは思ってもいます。だから先人の象徴がタスクなのかもしれません。
考察サイトをみると「タスクはカンチだ」とありました。なるほどです。
カンチがテレビだとして、タスクが先輩クリエイターだとすると、先輩クリエイターの作品もやっているのがテレビです。だから同一化するのでしょう。
アトムスクの一部がカンチに入っていた、と言う設定でした。
手塚要素の作品には石ノ森章太郎が手伝ってもいた、と言うことですし、先輩クリエイターの作品の一部も「理想の象徴」の一部分を形成している、という事です。
マミ美は先輩クリエイターのファンです。だからいなくなるし、それでいい。
自分は「理想の象徴」の力を一瞬手に入れたりは出来たが、それは一瞬でありその後は普通のクリエイターに戻る。
しかし先輩クリエイターからすればまだ子供とも言えたのが、この頃の鶴巻さんらです。
だから、歴史に残るような事は無理かもしれないけど、ただ普通のクリエイターとして生きていけばいいのじゃないのかな? という最後だっと思います。
鶴巻さんはこの作品で「挫折した子供を描きたかった」らしいです。
しかしナオ太はあまり挫折はしてません。子供だから、あれでいい。彼のターンはまだこれからなのです。
実際の挫折した子供とは鶴巻さん自身の事ですね。歴史に名を残すようなクリエイターにはなれなかった、と言う事でしょう。
しかしこれも「まだ俺のターンはこれからだ」と言う意味合いも含まれます。その通りだと思います。
で、前に言った事に戻ります。
「暗喩では無い方の主役」に対する目線、思い入れが変われば、皆の心と記憶に残る物語にはなると思います。
それ以外が上手いのは分かりましたので、足りない所を補完するべきです。
鶴巻さんが何を目指しているかは分かりませんが、もし記憶に残る作品が作りたいのなら、その事に気がついてほしいです。