号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

アニメのトップをねらえ2!

アニメ「トップをねらえ2!」を見ました。感想、ネタバレです。

 

ガイナックス20周年記念作品だそうで、確かに気合が入った作りでした。

実力と気合と思いと考えが入った作品は、中身が詰まっていて考えるには面白いですね。

ただそれと作品自体の面白さは別だと言う事も考えさせる作品でした。そこも面白かった訳ですけど。

 

流石に昔の「トップをねらえ!」の頃のスタッフの多くは、もうガイナックスにはいなかったようです。この頃(2004年頃)は岡田斗司夫さんもとっくの昔にいないしね。

その中で「トップをねらえ!」(以後「トップ1」で表す)で監督をやった庵野さんはかろうじて残っている時です。しかしあまり「トップ2」の作りには係わってないようです。

それでも4話で絵コンテ担当になり、庵野節が入ったのか? もしくは庵野節を誰かがまねたのか? は分かりませんが、4話から急にまじめになり、そしてエヴァに似てきますね。

ただ始めから「トップ1」の様に4話でまじめな話になり、見た目の方向が変わる事は狙ってやったようです。だから4話で庵野さんが絵コンテに加わるのも始めからの狙いだったようですね。

そして庵野さんはこれの作品の後でガイナックスを抜けます。「トップ2」の監督である鶴巻さんも摩砂雪さん等もスタジオカラーに移ります。

そしてこの作品とかぶる感じで作られたのが「グレンラガン」だそうです。そして「トップ2」の方にガイナックスのメインスタッフが係わっていたために、「グレンラガン」は若手で作られたようです。これも何か時代の偶然が後世に係わってるようで、面白いですね。

グレンラガン」の後でそれらのメインスタッフもガイナックスから出て行き「キルラキル」等を作る事になるので、歴史を感じます。

しかしそう考えると「新劇場版エヴァ」のメインスタッフも「キルラキル」等のメインスタッフも残っている時に、20周年記念で作られたこの作品「トップをねらえ2!」が、良く出来てない訳が無いと言う事です。

それと同時に20周年記念であるが、今となればガイナックスの「断末魔」にも聞こえる気がします。消える前のロウソク状態だったと言う事です。

 

20周年記念で「トップ2」をやる事になり、誰も監督をやらないそうだったので鶴巻さんが「私がやります」と言ったようです。

そして鶴巻さんは元の「トップをねらえ!」と言う作品が好きだったようです。

しかも思い入れだけではなく、あの作品の内容に対する考えを持っていたようです。

ネットで探したら「WEBアニメスタイル」と言うサイトで、2006年にやった鶴巻監督とのインタビュー記事が残ってました。

これが細かくちゃんと答えていて、面白い訳です。

庵野さんとかはたぶん鶴巻さんの様に、こんなに内情や考えを話さない人だと思いますが、それはそれで正解だとは思います。

「各々が考えて、自分自身の答えを出すのが作品」と言う考えだと思いますし、通常はそうあるべきでしょう。

ただあまり分かりずらい作品だと「結局ほとんど誰にも伝わらない事に意味があるのか?」問題が出て来ます。

私には誰も分からない位なら、ちゃんと内容を話した方が良い気がします。せめてヒント位はほしいですね。

ただこれはどっちが正解という話では無いですね。両方あった方が良いと言う事です。

この記事の中の鶴巻監督のインタビューを聞くと「かなり考えられていたのだな」と分かります。もっと漠然と考えていたのかと思っていたら、かなり細かく練っていたので驚きました。

それと同時に、前にネットでカラーのスタッフが「庵野さんだけではなく、カラーには優れた人が沢山いる」みたいな事を言ってた事の納得がいきました。

この記事を読むと「鶴巻さんもアニメ制作でトップを飾れる器なのだろう」と言うのが分かるからです。

ただだからと言って、「トップ2」の全てが上手く行っている訳では無かったですね。そこがまた面白い訳です。

これほど練っても、そして間違って無くても、何かが足りない作品だった事は間違いがないのです。

そしてこれは分かりずらい間違いです。だから皆が頭で気にしてないか、気に出来ない問題な気がします。

しかも「ここを、こうしろ」と言う単純な答えでは言えないものです。

ただ考え方や方向性は、漠然としてだが、分かった気がしたので言っていきます。

 

このアニメを途中まで見て思ったのは「暗喩が入ってるな」と言う事です。

いや、入っていると言うより、暗喩だと思わないと不自然であり、分かりずらい作品だと思いました。

 

例えば、地球を敵にぶつけるあたりです。ネットの感想でも「何で地球をぶつける必要があるのだ?」と言ってた人がいましたが、多くの人はそう思った事でしょう。

しかし鶴巻監督は結構SF好きな人らしいですね。だからコメントで「SF的な答えは色々考えていたが、時間の問題や演出の問題で切った」と言う様な事を言ってました。だからこの「地球ぶつけ」も意味は通る事は考えてはいたと思っています。いいかげんでは無いと言う事です。

個人的な考えでは、地球には既に何か機械が取り付けてあって、それに動力をつなげばすぐに移動が出来る。何かあった時の移動用とか防御用の機械が地球には付いていたと言う事です。

他の惑星に新たに付ける事は時間がかかり過ぎるので、間に合わない。だから地球を動かしぶつけようとした、とも考える事が出来ます。

昔は作れたバスターマシンの作りが全て把握できてない時代だと言う事もあり、昔作った装置の方が優れている事もあり得る時代だと思えば、地球を動かす機械の元は昔に作られ、今では無理か、難しく時間がかかると言う事も考えれれる、と言う事です。

 

さて、地球をぶつける理由があったとしても、物語としてみたらそれは後付けですね。

つまり「地球をぶつける」がまずあり「その理由を考えた」と言う流れです。

これは製作者の考えの話になるのですが「何を念頭に置いていたのか?」で「なぜそうしたのか?」の理由が変わる訳です。そこがまた面白い。

 

物語を見るには、どの目線で見るかのレベルみたいのが、階層になっていると思っています。

まずはアニメの世界に降り立ち、その目線で見る事です。アニメの世界を信じ、その世界があってその人々が本当に生きていると思い、考える事です。

ネットの意見であったのは「地球ぶつける作戦は、ラルクのノノの対する当てつけじゃ無いのか?」と言う事です。

前に、ノノに地球の鳥を見せると言ってノノは喜んでいたので「地球が無くなると思えば帰って来るだろう」とラルクは思ったのではないのか? と言う事だそうです。

確かにこれも一理ありそうです。

もっと時間をかければ(一年とか)他の惑星をぶつける事も出来るが、ラルクがそれだと遅すぎると「地球ぶつけを押した」とも考えられます。ラルクがいないと作戦が出来ないので、ラルクが押したのでそうなった、とも考えられます。

これがキャラ目線での解釈です。

 

次にネットの意見であったのが「地球をぶつける位の事をして、盛り上げる為じゃないのか?」と言う事です。

これが製作者目線の考えですね。

ぶつける理由は製作者の中にだけあったと言う事です。

 

私が最近分かった事で、実はこの「製作者目線と言う事自体が、階層になっている」と言う事です。

それが暗喩です。つまり見たままの物では無く、何かがまるっきり別の何かを表していると言う事です。

さっきの「地球をぶつけるのが盛り上がる」と言うのは、地球を地球として見ていると言う事です。

しかし暗喩だとしたら、別のものかも知れない。「世界」とか「生活」とか「生まれ育って生きてる町、国、土地」とか「一般人が生きている場所」とかを表す象徴として、地球を出したのかもしれないと言う事です。

これだけ言っても分かりずらいですが、他の暗喩を考えれば納得がいくと思います。

トップレスは超、能力者だそうですね。そして大人になると力が無くなる。鶴巻監督が言うには、このトップレスの能力は「情報を他の情報に置き代える力」だそうです(だから折り紙が作中で出て来るのだそうです。紙を鶴に変えれるから、意味的にかぶるからだそうです。この辺りはなんとなく折り紙を出したのかと思っていたので、ちょっと感心しました)。

そして最強のトップレスがラルクですね。そしてもちろん子供であり、それが最後大人になる物語でした。

つまりラルクは子供の象徴であり、もっと言うとオタクの象徴だそうです。

子供の頃は想像力で何でもできる(と思っている)が大人になるとその想像力、妄想力がなくなる事を表したのがトップレスだそうです。

トップレスと言う言葉自体トップ、つまり頭が無い、と言う事は大人としての知識がない事の自虐ネタの様なものですね。

つまり物語全体が暗喩で出来ていて、オタクが大人になる物語が「トップ2」です。

 

話がやっと戻り、製作者の目線が階層になっている事です。

その一つが見たまんまに見ている。地球を地球として見ていると言う事です。

もう一つが暗喩として見ていると言う事です。そして「トップ2」はこっちの方が監督の思いは強い物語でした。

「トップ2」の物語は、「まだ子供であり、オタクの象徴であるラルクが、地球すなわちリアルに生きて行くべき生活や世界を捨てて、トップレスとして、つまりオタクとして戦おうとする話だった」と見れば、地球を出す理由が分かると思います。

そしてオタクとして全てを捨てて戦おうとするラルクの行動を否定する物語です。だからこそ、ノノがいなくなり戦いが出来なくなる話だったのです。

 

個人的には地球をぶつける理由が「ラルクがそうしたかった」では大げさすぎるし、大雑把すぎる。「物語として地球をぶつければ盛り上がる」と言う理由も同じく大雑把すぎるように見えました。他の物語の内容から、そうする監督だとは思えなかったのです(他がもっと大雑把な作品だと、ただ盛り上げる理由だけでやったと思うでしょうけど)。

そうなると「地球をぶつけるのは暗喩だな」と思えた訳です。

そしてこの考えは鶴巻監督のインタビューを見て、当たっていたと分かったわけです。

 

そもそも「暗喩だと思えるものが多いな」と思える作品でした。

それでも、もっとなんとなく暗喩を入れてきてるのか? と思っていました。

しかし細かく鶴巻さんは考える人なのですね。なめてはいけませんね。

そもそも鶴巻さんは「トップ1」を見て「これは暗喩としてオタクの話だ」と思っていたようです。鶴巻さんも言ってたけど、それを庵野監督がどこまで当時思って作っていたのかは怪しいらしいです。ただそう思って作ってなくても、そうなっている作品だと言いたいようです。そうだと思います。

 

話は少しそれますが、暗喩には三つあると思います。

一つは作り手が強く意識をして、そうしている暗喩です。

次は無意識で出てくる暗喩です。例えば敵をドイツ軍みたくしたら、反対側はアメリカみたいかソ連ぽくしがちです。そして全体としても第二次大戦の暗喩みたくなって行くものです。知っている情報からどうしてもかぶってしまい、あらためて見ると暗喩になっていると言う事もあるのです。

そしてもう一つは「全然違う理由でそう作ったが、見てみると暗喩になっている」と言う所です。これはたまたま暗喩としてかさなってしまい、そう見えると言う所です。

「偶然暗喩になった所」であっても多くの人がそう見えたら、そうなのです。別に監督の思いが正解ではなく、見えたものが正解です。例えば監督が名作と思って作っても、皆が駄作だと思えばそれは駄作なのです。逆もしかりですが。

なので「トップ1」も暗喩的にオタクの話だと見えたのなら、庵野さんや岡田さんや山賀さんが思って無くても、そう言う作品だと言う事です。

 

そうして、鶴巻さんが「トップ2」をやる時に、「2」なのだから「1」を踏襲する。まあどこを踏襲するかは監督の裁量ですけど。

そこで暗喩としてオタクの話を踏襲したようです。面白いですね。

しかもこの要素、エヴァにも通じるじゃないですか。そこがまた面白い。

更にこのアニメ2004年位なので、旧映画版のエヴァよりメッセージ性はこなれてきている。

そしてこの考えが新劇場版エヴァにも受け継がれている気もします。少なくともこの後の作品を考える参考にはなったアニメだと思います。

 

ではトップレスがオタクの暗喩だとすれば、ノノは何なのか?

ノノこそがアニメの象徴でしょう。

何を考えているか分からない単純バカのロボット。

愛想と魅力とピンクの髪と強い力とウルトラマンの様な衣装とキックの必殺技を持ち、たまに肌を露出する彼女こそが、アニメの象徴そのものですね。

ラルクはノノを求めるが、最後行ってしまう。死ぬわけではないけど、消えてしまうのです。これこそが大人になったラルクに対する、アニメの魅力の事でしょう。

さっきも言った様に、ラルクが地球を捨てて戦おうとするのを否定するのがノノなわけです。アニメの象徴が、オタクの生きざまを貫くのを否定するので、まさに皮肉ですね。

そしてそれはアニメの象徴を魅力的に描いている鶴巻監督が、オタクの生きざまを否定してるのです。この辺の感覚は、まだ旧劇場版エヴァと同じですね。

 

ノノが最後でかくなりますね。操れない物であり、訳が分からない物であり、力を得過ぎた物であり、だからこそ大きくなりすぎた物である暗喩です。オタクには大きくなりすぎたアニメ要素は力になりますが、危ないのです。だから最後消えなくてはならない。

これは富野さんの真似だと思います。もちろん富野さんからエヴァに行き、受け告げられた暗喩、それが「大きくなる」だと思っています。

そして最後消えるのも、また富野さんからの受け継がれてきた終わり方です。

終わらせる為に最後は消えなくてはいけない。それが富野作品でありウテナでありエヴァでもありました。とにかく最後殺すか消えていく物語でしたね。

そう、これが2004年頃ですね。そして2011年ピンドラになる。更に2021年シンエヴァになる訳です。つまりまだ完成されてないのが2004年頃だと言う事です。

オタクの生きざま、つまりアニメ制作者が自分自身の生きざま自体すら否定している話です。情緒不安的でまだ定まってない考え方です。

そしてその不安定さは、富野さんが強く持っていた事ですね。2005年で新劇場版Zガンダムなので、富野さんはやっとこの頃情緒不安定の考えから自分を見付け始める頃です。

私はこの富野さんの考えが変わった事で、庵野さんは気が付いたのじゃいかと思っています。何かが間違っていたと。そして鶴巻監督も同じじゃないかと思います。

でもだとすると2004年から2006年に作られた「トップ2」の考えは、まだ不完全だったと思っています。

そしてたどり着いた2021年、エヴァのラストは、大方は消えるが肯定の物語になっていました。オタク要素が消え去るのではなく、バランスよく手を取り合って、現実も虚構も受け入れる物語になっていました。

なので時代的にしょうがないのですが「トップ2」の頃は、まだあまいです。

 

敵の宇宙怪獣は何なのか?

あれは良く分からない敵でしょう。オタクの敵です。

オタクの敵は何だか分からないものです。本当に敵なのか? と言う事です。

「トップ2」ではトップレスも宇宙怪獣も同じ要素を持っていると言う事でしたね。

暗喩的にはオタクも敵も実は同じものだと言う事です。

一つはオタクの敵の人は、同じ人だと言う事です。

もう一つはオタクが作る敵要素は、自分が作っているとも考えられると言う事です。

昔と違い今はオタクも生きられやすり世の中だと思います。

別に分別を持っていれば、普通の人を敵にまわす事も無いのです。

もしオタクとしての敵がいるのなら、それは自分が作った敵だと言う事でしょう。

 

さて暗喩としても物語の作りとしても、良く練られていて考えられているのが、鶴巻さんのインタビューで分かります。実際良く出来てます。

絵も綺麗で、ロボットなども凝っていて、どんでん返し要素もある。なのに今一パッとしないですよね? なぜなのか?

つまりこれでもダメだと言う事です。何が本当に大事なのかが分かるアニメでした。

結局は人の感情なのでしょう。

見てる人はこった作品ではなく、感情にひっかかる作品を見たいのだという、当たり前であり基本的な事だったのです。

昔から皆が普通に思っている「面白いと思える作品」を目指すべきなのです。

新たな作品が出てきても、結局は昔から何も変わってはいなかったのです。

例えば鶴巻監督のインタビューで「ノノが何を考えているか分からないのも狙いだった」みたいな事を言ってました。それでラルクの感情的な事が分かりやすくなるし、客が考える余地が生まれる。

まあそうだし、間違ってはいないと思う。

問題は「面白くない」所です。そこが分かっていない。

つまり分からないとしても「なぜだろう?」と客が考えたくなるような作品になっているのか? と言う事です。

5話の最後でノノが戦線を離脱する時も、サーっと行ってしまう。

一瞬で良いのでノノが考え悩み、首を振り去って行く、と言う様なシーンを入れるだけで見え方が変わったと思っています。

ラルクの苦悩もふりが少ないですね。だから客がラルクに乗れてないのです。急にノノが強くなり自分が役立たず扱いになり落ち込む。そうでしょうけど感情にささらない。

なぜならそもそもラルクに共感が出来て無いからです。優れていて、えばっているように見えるトップレスが死のうが落ち込もうが誰も共感はしない。せめて「実は大人にいいように振り回されてる子供」みたいな演出は欲しかったかな?

ノノもそうです。明るく元気なロボットです。あられちゃんです。共感は出来ないですよね?

昔から皆が思っている、感情にささる面白要素を目指すのが基本です。

これは昔から、そして未来においても何も変わらない。

何度も言うけど、青い鳥はいつも家にいるのです。

 

トップをねらえ2!」は、良い意味でも悪い意味でも参考になるアニメでしたね。

これほど良く出来ているのに、今一うけて無いのには理由があると言う事です。

灯台下暗しです。どのアニメも遠くばかり見過ぎです。

面白要素何て、昔から足元に転がっている事に気が付くべきです。

 

さておまけです。

 

個人的に途中最後を予測した事です。

ノリコが帰ってくる頃の話です。

だからノリコが巣をやっつけた(閉じ込めたのか?)の情報が他の場所の怪獣に伝わるのも、実はこの頃だった、と言う設定にも出来たと思っています。

だからトップ2で最後怪獣が沢山来て危ない時に、ノリコが巣をやっつけた事がやっと他の怪獣に伝わり逃げ帰って行く、となるのかな? と思ってました。

(もちろん巣の怪獣のテレパシーが他の怪獣に来なくなるとか、分からない位間延びするとか考えれますが、1万年も封じ込められている怪獣がいるのだから、死ぬ瞬間の断末魔が一万2千年後に来ても平気じゃ無いのかな?)

あとトップレスが怪獣と同じ要素を持っていると知った時に、最後怪獣も人も結局同じなので、和解もあるのかな? と思っていました。

まあ和解の可能性が出るのは、2004年頃だとまだ先ですね。シンエヴァの頃まで待たないといけません。

 

脚本が榎戸洋司さんだと言う事です。

Wikiによるとウテナのシリーズ構成であり、アドゥレセンス黙示録の脚本だそうです。それにイクニさんの高校時代からの友人だそうです。

そして新劇場版エヴァの脚本協力をしてたようです。なるほどですね。

ウテナ関係なら寺山修司が係わっている事が分かっていた筈です。

だからシンエヴァに係わる事で、最後の寺山要素が上手くまとまったのかな? とも思えます。

 

そして「トップ2」の2話の絵コンテ、イクニさんなのですね。

こんな所に係わっていたのか。

だからガイナックス要素をピンドラに入れたのも、入れられたのも納得がいく訳です。

 

「トップ2」の各話の絵コンテと演出、そしてもちろん全体の監督やキャラデザイン、それらのメンツを見ると面白いですね。色々な人がいたのだなと分かるし、20周年記念なのもわかる。

なら岡田斗司夫さんも少しからめても良かったのじゃないのかな? ダメかな?

この中にイクニさんが加わっているのが面白いと言うか、不思議だと言うか、実は自然な事なのか?

ちなみに2話って妙にエロアングルが多かった気がしますけどね。

ガイナックスってこう言う所でしょ? と言うイクニさんの冗談が見え隠れする気がするのは、私だけでしょうか?