号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

輪舞曲アニメ

アニメ映画「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」感想、考察、ネタバレです。

 

テレビ版の総集編ですね。

見て忘れてる方が見直すには丁度いいですが、始めてみるならやはりテレビ版を見るべきです。

 

原作と脚本が監督と違うので、どこまで監督の影響が大きいのか分かりません。

たまたま監督がやりたかった物と近かった内容なので寄せて来たのか?

もしくは監督の意見がある程度通ったのか?

もしくは他のスタッフが感じた事も近かったのか?

は、分かりませんけど、やはりイクニ作品のオマージュな気はします。

 

前に言った様に、あの世の世界の話だと思っても見れる内容になっています。

だからか今回映画版の最後に死を予感させる。

ただこれはどうも演劇者としての死の事らしいですね(この後の映画版のあらすじを、見る気は無かったのにチラッと見てしまい、その感じで話しています)。

そうなるとこれまでの死の世界の感じも、あくまで演劇者としての死だったり、これから新たな世界でどの様に生まれ変わるかの前を、表しているとも見えます。

つまり死を表すのもあくまで暗喩としてであり、「演劇者として死んだようなものだ」と言いたいようです。

ただこれは言い訳ですね。誤魔化しです。

たぶん、死を表す一番の理由は、イクニ作品に(特にユリ熊に)近づけたかった気がします。

次の理由としては、演劇として見せているのだが、本当に言いたい事は自分達の事だった気がします。

つまり演劇ではなく、アニメ制作の事を表しているのではないでしょうか?

 

アニメ制作を暗喩としてかけているのなら、イクニ作品を暗喩として置いていく事に理由が通ります。

この監督にとったらイクニ作品が輝く星なのでしょう。

星が二つありますね。大きな星に小さな寄り添う星です。この小さな星がユリ熊で副監督であった古川監督の事では無いのか?

キリンがイクニさんだと言いましたが、キリンは「誰にも予測できない運命の舞台。私はそれが見たいのです」と言います。イクニさんてこんな人っぽいですよね?

ただキリンがイクニさん自体ではなく、あくまでその要素をもったキャラでしょう。

そしてイクニ要素は他のキャラの中にも入っている気がします。

これはアニメ制作を表す時に、古川監督にとって影響が大きな人で、アニメにして面白そうな人がイクニさんだったからじゃ無いでしょうか?

かれんがひかりと「スタァを目指すと戦う事になる」みたいな事を言います。つまりアニメ監督になれば、イクニさんとも競う事になると言う事でしょう。

しかし「二人できらめけばいい」と言います。これは両方成功する監督であれば良いと言う事です。

 

ナナはこれがずっと続けば良いと、繰り返そうとする。

ネットでの感想で、ここが「またループ物で、しかもつまらない」と言ってる人がいました。確かにループ物をやろうとしたのなら中途半端で良く分からない演出ですね。

しかしこれがアニメ制作を表していると思うと、理由があると言う事です。

つまり「前回やったあのアニメが最高だったから、あれを延々やろう」と言う進歩が無い人だとダメだと言う事です。

なのでミロのヴィーナスが出て来るのかな? と思います。ミロのヴィーナスは腕が無いですが、たぶん腕にはリンゴを持っている筈だと言われているようです。リンゴを失ってしまったと言う事です。知恵を得て人になる事が出来る禁断の果実を、失ってしまう様なものだと言いたいのでしょう。

ただ同時に禁断の果実を手に入れる事は、エデンからの追放にもなります。それはいばらの道でもあるが、人の道でもある。どちらを取るのか? と言う事です。

制作者が前に作った、上手く行った同じような作品を延々作り続けるのは楽園でしょう。だが良くも悪くも、知恵を得ていばらの道を突き進むのが人の道です。それがリンゴを失わない、と言う事です。そしてこれはピンドラにかかっていると同時に、イクニさんの考えにかかっていると言う事です。

ナナはずっと「眩しい」と言います。繰り返しても繰り返しても眩しいのはおさまらないようでした。目がくらんで良く見えて無いと言う事です。

そしてこの光り輝くシーン、途中からその前にキリンがいますね。イクニさんが光り輝いて眩しいのです。同じ事を繰り返し、進歩のない人ではいつまでもイクニさんは眩しい存在のままなのです。

 

最終話あたりで、ひかりと一緒にいると、きらめきが奪われると言います。

アニメ制作だと、監督以外のサポートスタッフは才能も労働力も全て奪われるような物らしいです。

宮崎駿さんの事を庵野さんが言ってましたね。あれは駿さんだけでいいんだと。ただ一人だと手が回らないから、駿さんのコピーとして細かな事をするスタッフがいるだけと言う事を。ひかりが言ってたのは、この事でしょう。

かれんはきらめきが奪われてもかまわないと言う。

宮崎駿さんに付き添うスタッフもこんな気持ちだった事でしょう。イクニさんに付いてるスタッフもです。

最後ひかりは「私の全てを奪ってみせて」と言います。

この事を監督はこの作品「レヴュースタァ」でやっていたと見えますね。イクニ要素を奪って見せたのです。

この辺の内容が、物語自体の「演劇の事」と取ると、今一つ意味が伝わりませんよね?

でもこれらの内容が「アニメ制作の事」と見れば、全ての意味が通ります。

なので伝えたい事はこっちなのです。

(追加、例えば映画だと上演男優賞とかあります。脇役でも見えて評価されるのです。しかし製作者などの裏方だと誰が何を担当したのかは分からない。だから大体監督が評価を一身に受ける事になるのです。もちろん悪い評価もですけど。なので舞台だと「全ての」きらめきを主役に取られる事は無いと言う事です)

 

最後、物語のエンディングを変える。

アニメのエンディングは決まっているのではなく、自分で決めるものだと言いたいのでしょう。

そしてアニメ制作者の人生も、自分で決めて変えて行くものだと言いたいのでしょう。

しかし失敗する事もある。

間違える事もある。

アニメ監督も、毎回オーデションで試されているようなものです。

しかし一回失敗でも終わりでは無いと言いたいのです。

間違って、進歩を諦め同じようなものを繰り返し作った時があっても、終わりではない。

例えアニメ監督として一度死んだとしても、また生き返りやり直せると言うのです。

アニメ制作なんて地道な物でしょう。

石を積み上げているかのようなものです。

そして出来上がったら、そこで終わりです。

また新たなアニメ制作になったら一から積み上げていくのです。

そしてアニメとして、他のキャラや世界を作り、生まれ変わったかのように新たな人生をアニメ世界の中に構築していくのです。

これらを表しているのが「死の世界」であり「輪廻」であり、更に奥に「イクニ作品」や「アニメ制作」をかけ、その表として「少女の演劇学校」を舞台としてかぶせている。

とても複雑にやってのけていると思います。

 

いやいや、探せば色々いるものですね。

まだ見てませんが、たぶん最終章になる映画版も楽しみです。