号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

暗喩 田園に死す 庵野

映画「田園に死す」考察、二回目、続きです。

 

アニメ、シンエヴァのラストのネタバレ少し含まれます。

シンエヴァが含まれる? まさに異次元の映画だと言う事です。

 

現在のしんちゃん、つまりここでの「私」が先生と言う人と話す。

絵は逆光で顔はほぼ見えない。だから言っている言葉に集中するしかない状態を作っている。

でも煙が妙に多い絵です。煙に巻くような話と言う事であり、不思議な雰囲気を出しているのだろう。それとこれも飽きさせない絵作りで、客に気を使っている。簡単で単純なシーンの様で、考えると良く出来てます。

ここでの二人の話は難しそうな話です。ただ最近だともう古臭い話に聞こえるかもしれません。良くある哲学的な話です。

しかし映画等で、こういう時の難しそうな話は、意味ありげだが意味が薄い話になりがちです。雰囲気だけを作りたく、それらしい御託を並べてるだけの物語が多い。

しかしこの映画では、ちゃんと言いたい事があり、それを言っているので映画として筋が通っている話し合いですね。寺山さんは、意外とまじめで誠実なのがここでも分かる。

 

この時「親殺しのパラドックス」の事を言います。タイムマシンで戻り、祖母等を殺したらどうなるのか? です。殺したら今の自分が存在しなくなり、だとすれば祖母を殺せなくなり、成立しない。

なんでここでこれが出て来るのか分からない場面です。しかしちゃんと後で意味が通る内容です。

しかも上手いですね、この暗喩は。良く見つけたと言うか、良く合わせて来たなと感心します。流石です。

 

細かな事で、ここで道路で走る車の間に立つ。普通に流れる時間と、感覚的に昔に戻って行く時間の流れの両方を表す。こんなのもきっちりやって来るのですね。

 

そしてアパートに戻ると20年前の自分、しんちゃんがいるわけです。

映画として面白い流れ、場面でもあるが、ただ面白く見えるだけではなく、これもちゃんと筋が通ってるのが良く出来てますね。

映画作りの為になんとなく昔を思い出していたら、しまいに自分の昔に深く向き合う事になって行った、と言う事です。

そしてカラスがアパートにいるのも含め、リアルな今現在に影響を及ぼす事になった、と言う事です。

もちろんあくまで影響があるのは自分自身の心にだけであるが、自分に影響を及ぼすから自分の考えや行動を動かし、それが間接的に今現在に影響が及ぶ、と言う事です。

 

夢も昔も自分自身には影響があるので、間接的にはリアルな社会に影響が出る、と言う事でもあります。

幻も作り話も実際の社会に影響を及ぼす事が出来る。これが最後に繋がるのです。

なので、夢も現実も思ったよりは線引きが無い。だから奥のドアが開くとまたあの昔に戻って行くのです。

 

ここでさっきまで言っていた昔話の内容は嘘だったとネタバラシです。これも話としては面白くなる展開です。

これは昔を誤魔化し生きて来た人生だった、と言う事です。

 

この後のハンマーは良く分かりません。今までを壊すイメージそのままなのか?

(追加、ハンマーは社会主義の象徴でした。物語全体が左翼化運動と学生運動の事の暗喩になってる事に気が付いたので分かりました)*1

 

そして十字架に張り付けられた女学生の人形の頭に刺さった包丁。エヴァリリスはここからですかね? ちなみにエヴァはこの映画の影響が大きい気がしますが、そうなると他の寺山映画の影響もあるでしょう。そして他の映画や演劇や、もちろん昔見た特撮物の影響も強い。だから影響がこの映画だけでは無いでしょうけど、それでも大きいのは間違いがない気がします。特に最後の終わり方です。

ちなみにこの十字架の女の学生服は昔の思い出と言う事。そして女に対しての憎しみや恐怖。それを隠さず表し出してきたと言う事です。

 

この時の歌は良く分かりませんが、物語の途中の大きく動く時にこの様な歌やシーンで一度区切ると、ここから変わるのだと分かりやすいし、小休止にもなるので、単純に物語の作り方と見てもちゃんとしています。

この辺の絵は、歌の歌詞の印象と、昔の田舎への呪いと、憎しみの思い出、等を表していると思います。生理の女は、子供を産む体の為血を流して生きている事への、男の罪悪感ですかね?

川に橋があったが壊れて柱部分だけ残ってる絵があります。流れる時の中で、壊れてもう戻れない時間や場所ですかね? 写真が飾ったあり、赤と白の長い布もある。これも実際の昔の家だと写真とかが飾ってあるし、日本の旗とかが飾ってあるので、それらの象徴です。それにこの崩れた橋の足部分、鳥居に見えるので、これも戦中の日本の象徴であり、しかし偽物でもあり、しかも崩れた物であります。

壊れて使い物にならないのに、形だけかろうじて残してあり、流れる時間の中でそれだけは変わらずある。これが戦後の日本であり、家であり、昔の田舎の印象なのでしょう。

 

「ててなしご」と言う言葉、久しぶりに聞きました。父無し子の事です。

あざがあると難癖付けられて、間引きしろ、つまり殺せと村人に言われる。たぶん寺山さんが子供の頃に似た事があったのでしょうね。こんな事が昔の田舎の呪いのイメージとつながるのでしょう。

 

しんちゃんが家出をしようとする。この時母は力ずくで止めようとする。つまり力ずくで止めるような事しか出来ない母だと言う事です。話して納得させたりは出来ないし、しない。

 

この時変な音が入ってます「ぎゅー」とか言う音です。これは音楽でもなく、場面内で出てる音でもない。ただの印象を強化する為の音です。これも面白いですね。

 

しんちゃんが蔵みたいな所に行く。ここが近所の綺麗なお姉さんがいる所なのでしょうけど、つまり蔵に住まわされているのか? 蔵の中の家の財産あつかいだ、と言う事の暗喩でしょう。

この蔵の横のポスター「福助の足袋」ですね。これの理由は分かりませんが、若い人は存在自体分からないだろうとは思いした。そして私の生まれた頃の映画なので、私の分からない事も多くあるだろうとも思います。

 

この後の線路の所、前と同じだが色が普通です。前が脚色されてたと分かる絵です。

そして母の髪を握る。捨てて来たはずの物なのに、まだ自分にまとわり付いているし、それを捨てる事も出来ない。そしてお姉さんがいない事で、母の言葉が正しかったのか? と思えても来たのでしょう。

 

線路が切り替わる。これから行くと思っていた方向が変わってしまった、と言う事。

 

綺麗なお姉さんは恐山に行ったと言う。恐山は死者が行く所ですね。そこに向かう時点でこの後の事を予見させるし、そもそもお姉さんはそのつもりだと言う事。

この時「間引きはやだ」と言ってる子供を産んだ女と会う。いやだといいながら、恐山にいる時点で死に近づいている。

そのあとしんちゃんの足音が沼を歩くような音になる。これも沼を歩いてる気分だと言う事でしょう。分かりやすいけど、細かい。この映画ではとにかく思いつくのを全てやろうとしたのが分かる。

 

お姉さんと男を見付ける。ここは屋根も無いですね。

これも面白いのは、劇だと屋根が無くても家だと思い、誰も不思議がらない。だから映画でも同じじゃないかと思うが、やはり違う。違うけど慣れてくるとどうでもよくなってきますね。これは別にここのメッセージでは無いでしょうけど、常識とは何か? を考えさせます。

この屋根がない所は、細かな事はどうでもいいと言っているシーンであり、恐山の中である事、つまり死の手前であり、現実から心が離れて行っている事も表し、離れて行った最後はどこかも暗示させます。

 

ここでお姉さんが昔話をする。

たぶん寺山さんは子供の頃、似たような人生の人を見て来たのじゃないでしょうか?

ここでは親、特に父が亡くなった後の母の事を話す。畑にすがっている母の事です。これはしんちゃんの母と同じと言う事です。

他人の母が亡くなった事を聞いて、もし自分の母が亡くなったらどうなるのか? 自分がどうなるのか? を考えろと言う事です。

子供の頃に亡くなれば、その子供の人生は物理的にもおかしくなるし、精神的にも呪いとしてずっと残るだろう。しんちゃんに、お前の捨てて来た母はまだ生きてるだろう? と訴えかけるのです。

お姉さんは自分の母に「もうやり直しがきかない所まできてしまった。もう一度生み直してほしい」と言います。これも呪いと後悔と、今でも母にすがってる気持です。

昔に戻りたいけどそれは無理だ、と言う事を、誰でも出来ないと思う「生み直し」で表す。人生はやり直しも出来ないし、なかった事にも出来ないと言う事です。

お姉さんの母は「女などに生まれなければ良かった」と言ってると言います。これは好きで母になったのではない、と言いたいのでしょう。大変な事も色々ある人生、それを願った訳でも選んだ訳でもないのが母の人生だろう。母にも苦しみがあり、人としての気持もある一人の人間だと言うのです。それをしんちゃんに問うのです。

 

ここで主役「私」は思い出し考え、分からなくなり、もう一度昔の田舎の田園に戻って来るのです。

「過去の作り替えには二人の合意が必要」と言います。過去をなかった事にしたいと言う事です。

 

男が煙草をしんちゃんに進める。大人になれと言う事。大人が抱えて行く嫌な事も経験するだろうと言う事。つまり自殺した死体を見るだろうと言う事。

お姉さんの死は、母や家と別れた人生を送った人の末路。お前はまだましだと言うのです。

 

ててなしごを川に流す女。

これも母の事です。

しんちゃんは父がもう死んでいる。だから気に入らない。しかし始めから父がいない人に比べたら?

この母は子を川に流す。子を殺す。しんちゃんは生きている。しんちゃんの母は過保護で気に入らない母だが、殺しはしなかった事に気が付け。

この後川からひな壇が流れてくる。これはこの死んだ子の未来。生きて行けばひな壇を飾り祝った筈の未来も、一緒に流してしまったのです。あったはずの未来だから川上から流れてくるのです。なぜこれが流れて来るまで待てなかったのかと。

 

間引きした事を世間話で言う村人の女達。黒装束で眼帯で数珠をまわす。子供にはこう見えたのでしょう。ここは結構、理屈を無視しても分かる映像なのが面白い。

 

サーカスが娼館を表しているとの、漠然としたものだが、説明が入る。

この娼館は寺山さんが子供の頃みたイメージそのまんまなのでしょう。

これも女とは何か? 等が入ってると思います。

母はまだまし、とも取れるし、あの呪われた古臭い家もまだまし、とも取れるし、戦争で死んでいなくなってしまった父もまた、まだましと言う事です。つまり悪く思えてた昔の田舎での人生や親の肯定です。それを確認して歩く「私」。

(良く考えたらこの映画の作りだと、別にこの娼館の人達の否定ではなさそうです。でも肯定でもないでしょう。両方あると言う事です。皆それぞれ人生色々あると言う事です。この単純な良し悪しにしない所も良く出来てます)

 

手紙が「私」に届く。向こうを見ると恐山です。つまり死者からの手紙です。誰からの? 母です。

この後、家から外した時計を持ち恐山を白装束で歩く母。つまり人生の終わりであり、死んだ事を表す。

この時見える沢山のしんちゃん。見る事が出来なかった、いくつかのしんちゃんの未来です。

ただこれはこの時ではない。つまり昔では無いと思います。「私」の方に手紙が来た事も含め、ここでの未来で亡くなったのでしょう。

 

そして畑で将棋を指すシーン。

たぶん寺山さんの田舎のイメージでしょう。

まず田園。これが家じゃないのはたぶん家だと母がいるから。なので田舎のイメージで他には田園になる。このやり方は夢と同じですね。夢もこんな理論で出来上がっています。

裏で起きてるのは印象的な近所の思い出。

床屋が面白い訳です。子供の頃にお金をもらい、一人で行ってお金を払い大人にやってもらう事なんて床屋位ですよね? だから印象に残りやすい。しかも人生でずっと行く。人生をある時間で刻んでいるがごとくです。

将棋も面白い。大人と子供が前を向いて長々話す時はどんな状態か? たぶんこんなような将棋を打つ時ぐらいでしょう。これも夢メソッドであり、子供と大人が長々話す状態から将棋を指すが条件として出てきて、実際に将棋を差し出す、と言うのが寝てる時見る夢ですね。

母の話のくだりで画面がまた緑色になる。これは言ってる事が嘘だと言う事です。「変えれない過去は無い」と言う事からもフィクションです。そうだった方がどれだけ楽だったか、と言う事です。つまりもしそうだったら、母にも嫌気がさし心が囚われないですみ、焼けた家にも囚われないですんだ、と言いたいのでしょう。

この後三上さんと言う方が急に場面に向かい話し始める。さあ、なんでしょうね? ただ異化効果ではある。客を一度我にかえさせる。距離を置く事で頭を働かせるのです。それで眠気からさます。

それに加え、長くなり飽きそうな場面になると面白い事を始める映画です。エンターティナーではあるのでしょう。ただここは、この映画で唯一狙い過ぎな気がしましたけどね。

「家を出る時、母は付いてきてしまった」と言う。この時は両方の顔が見えません。なのでやはり嘘だと思います。さっき母は死んでるしね。つまり精神的に逃れられず、心の中に付いてきてしまった、と言う事です。

 

その後20年前の母を殺そうと言い出す。

つまり母の昔の印象を心から消そうと言うのです。

そしてここで「親殺しのパラドックス」につながる。

親を殺したら自分がなくなるのか? です。

自分は母から生まれ、母の要素で出来ている。その後の人生も母との思い出の中で出来ている。それを否定して、無かった事にしてしまったとしたら? 今の自分はどうなってしまうのか? 今の自分自身の否定にならないのか? それは自分自身さえ無くしてしまう事では無いのか? と言う事です。

「汽車に乗るには母の死体が必要だ」と言います。心が母から逃れられないと、どこにも行けないと言うのです。何処までも母の呪いで縛られてる気がしてるのでしょう。

微妙な白黒の絵で母が何処かの家で笑ってるのが映りますよね。これが心にいつまでも住んでいる母の幻です。

さっき言っていた夢の様に、家事燃やしてなかった事にしたいのでしょう。

それで解放されると思っている。

 

その後間引きした女と出会う。

この時、前にこの女がいた小さな小屋が映るが、燃えてますね。

これが「私」が望んだ事の結果だと言うのです。母と子の絆を消した結果がこの女なのです。燃やしてなかった事にしようとしてるのに、燃やした結果にあってしまうのです。

その後この女に襲われるわけです。

子を捨て、女に戻った女。さっき「私」は母が見知らぬ男と寝てたと言います。しかし嘘であると言う演出でした。こんな母だったら見捨てれてたのに、と言う事だと思います。しかしその望んだ筈の母の姿がこの襲ってきた女です。これが正解か? と説いているのでしょう。

そしてそれとは別に、自分に女が出来れば、また家や母とは違う人生が始まると言う事です。だからしんちゃんは腕時計をしてましたね。

ただ別の人生が始まるが、それでいいのか? と言う事でもあります。いつか家を出て自分の人生を始めるのは「私」との会話で分かっているのに、それを変え今家を出て行っていいのか? それが正解なのか? と言う事です。

(この間引きした女、これも別に全否定では無いですね。ただこれも肯定でもない。それは他の人にも、そして母にも通じる感情でしょう。この辺の多面性がある。白と黒両方がある。それが人である。等の事がイクニさん等の後世の人に、受け継がれていったのでしょう。ただ話は分かりにくくはなりますが)

 

ちなみにそれとは別に、これは寺山さん自身の女への恐怖でもあるのかもしれません。

母もそうだが、町のおばあさんたち、死んだ女に、間引きの女、そして娼館の女達。これらから寺山さん自身が子供の頃に植え付けられた恐怖感が、女の恐怖感としてトラウマになっていないのか? と感ぐりますね。

もちろん、恐怖だけではなく魅力もあり、生と死を表す存在が「女」なのでしょう。そしてそれが戦後の田舎と恐山にも通じる感情だと思います。良い悪い両方の要素、気持ちが入り乱れていると言う事です。

この物語は「母とは何か?」を寺山さん自身が説いている、と同時に「女とは何か?」も説いているのでしょう。

 

母を殺しに家に帰る「私」。

柱時計がありますね。まだ生きている時の母の面影です。

殺そうとしたのに、母の顔をみたら泣けて来たのでしょう。

ここでのやってる事を例えで表します。

「昔を無かった事にしようとする男。死んだ母の呪縛から逃れたいと思ってる男。昔を無かった事にする為に、昔の写真を取り出します。それを全て焼き、忘れて無かった事にして生きて行こうと思う。しかし写真を取り出し、母の顔を見たら泣けて来た」と言う話です。

この映画での内容と照らし合わせたら、母の存在のありがたさが分かったのです。良い所もあったな、と言う肯定です。消せない母の記憶が、呪いではなく思い出になったのです。

無かった事にしない。心にあっても良いものじゃないかと思えた。

だから母とご飯を一緒に食べる。心に残り、これからも母の思い出と一緒に生きて行っても良いと言う肯定です。

 

自分を縛っていた家も時計も倒れて無くなります。

明るくもなり、緊張の緩和です。だから現実に戻った事に安心する。

自分から夢の映画の世界から現実に戻れる事を願う作りなのです。

 

新宿のまわりにも昔の人達が見えます。これも不気味な昔の人々だと言う記憶から、ただの新宿にいる無数の通り過ぎる人の様に思えるようになった、と言う事です。

映画の様に、別にこの人らと話もしないしご飯も食べないけど、不気味な思い出ではなく、町を歩く人と同じだと思えるようになった。つまりトラウマではなくなったと言う事です。

 

ここで生まれた年と本籍地を言います。

生まれた年はこの映画の年です。つまり生まれ変わった気がして、肯定できる人生が、今から始まると言う事です。

そして本籍地は「東京都新宿区新宿字恐山」です。これもこれからは東京で生きて行くが、恐山にも自分の心があると言う事です。不気味な田舎も死んだ者たちも肯定して、一緒に生きて行くと言う宣言です。

昔も今も、全肯定の終わり方です。

 

ここは面白い絵であるし、終わり方である、と言う事だけではなく、ちゃんと理にかなった物語になってるのが良く出来てます。

 

さてこのラスト何かに似てませんか?

そう「シンエヴァンゲリオン」のラストです。

今は無い昔を肯定する。幻も肯定する。だが今現在を生きていて、現実を生きて行こう、と言う終わり方、まさにシンエヴァじゃないですか。

昔とは、庵野さんのウルトラマン好きだった子供時代とか、家族などの田舎で会ってた人の事です。(昔も認める事から実際の庵野さんの田舎の駅で終わりです)

幻も肯定とは、アニメの事です。(岡田斗司夫さんが言ってましたが、だから駅の反対側は実写ではなくアニメの世界なのです)

それらを否定せずに認める事は、自分の人生の肯定であり、今の自分の肯定なのです。

無かった事にするのではなく、それらの良さを受け止め、これからも一緒に生きて行くのです。

だから現実と虚構が近くに一緒にいる終わり方なのです。エヴァも田園もです。

もちろん実際には物理的に現実で生きてくので、エヴァは実写のラストであり、田園は新宿のラストなのです。

この「田園に死す」のラストを理解して、要素を足し、分解して、自分の形に作り替えて、見事に自分の映画にあった終わり方にしてたのが「シンエヴァ」だったのです。良く出来てましたね。

 

これは今現在でもこの映画「田園に死す」の要素が成立すると言う事でもあります。

一見おかしく見え、しかし実は地に足が付いた映画です。そして理にかなった映画なのです。

だからこそ、今の物語制作者もこの映画の事は考えるべきですね。考えるだけの価値がある映画です。

決して古くは無く、いや今も理解しておくべき物語なのです。