「Gのレコンギスタ」の「G」とは何か? ガンダム? グランド? グラビティ?
いやいや「じじぃ」でしょう。
アニメ「ターンエーガンダム」の映画版を見ました。ネタバレです。
アニメ「Gレコ」を見てみたら、流れや作りが「ガンダム」なのが気になりました。
この時はまだ見て無かったのですが、噂ではターンエーガンダムでは今までのガンダムとは違う雰囲気だったのは聞こえてました。
なのにその後のGレコでまたガンダムをするのはなぜだろう? と思ってました。
岡田斗司夫さんも2話で見るのをやめて「なんで制作側は富野さんに止める様に説得しなかったのか?」とまで言ってました。「ターンエーは始めからワクワクしたけど、Gレコはしなかった」とも言ってました。
富野さんがやろうとした事の答えは、実は自分的には大体出てたのですが「ターンエーを見ない事には確信が無いので、ターンエーを見なくてはいけないな」と思いました。
私にとっての「Gレコ」につながるミッシングリンクが「ターンエーガンダム」だったのです。
しかし50話は今更見てられない。だけど映画版がある事を知りました。だから映画版を見ました。
元のターンエーは一年やって50話なのですが、それを映画版では前後編二回でやります。
あきらかに無理があります。見る前にネットで感想をみたら「倍速で見てる感じがした」とありました。
そして実際に映画版を見てみたら、倍速なんてもんじゃないですね。特に始めの方は四倍速で見ているように感じました。精神的な動体視力を試してるような感じです。スポーツ感覚ですね。
でも50話は見てられないのであきらめて見ました。私の様な内容を大体知りたい人は良いけど、物語を楽しみたい人用ではいくらなんでも早すぎますね。何とかしてほしいです。もったいないですね。
さて内容です。ネットでの感想通りに世界名作劇場ですね。だからか宮崎駿、高畑勲の面影がちらつきます。富野さんにとってこの二人の方向に、一つの正解があると気が付いたのでしょう。そしてそこを避けずに、素直に一度やって見る事を出来る事が素晴らしいのです。
ただこの二人にたどり着いたのか? と言うと違いますね。とても頑張ってる様でしたが、逆にこの二人、宮崎、高畑、両名のすごさが分かる事になります。
ただこれは酷ですね。その分野で最高峰である人と比べる事と、この二人の得意分野で比べる事は二重に酷です。酷ですが、たどり着いてないのは事実です。
では意味が無いのか? と言うと違います。
ガンダムをやりながら、もっと言うとロボット物をやりながら、他の要素を入れる。そこに未来があります。
前から私は、一つのジャンルに多様性を足すのがこれからのやるべき道だと思っていました。
つまりロボット物なら、それに恋愛ものを足す(これはマクロス等でもうやってますけど)ミステリーを足す(これもエヴァでミステリー調なのはやってますね)冒険もの(ゴーグ等)、魔女っ子もの、動物もの、とにかく新たな要素を足す事が未来への早道です。
そこでガンダムに世界名作劇場を足してくるこのやり方は正解です。これで新たな要素の未来のガンダムが出来ます。
そしてここにきての富野さんの目指すべきものにも合致します。
それは戦いや戦争ではなく、地に足の着いた日々の生活の方が大事だと言う事です。
人間の普通の生活や、そこから生まれる感情がまずあって、それを軸に物語を描くべきだと言う事です。
物語上ではこれら普通の生活があり、そこから戦争になって行く。
しかし普通の生活が元にあるから基準点がぶれない。戦争をして行って、何処まで遠くに行ったとしても、最初の基準からの距離感で今の距離が計れるのです。
つまり人としての元の生活があれば、最後はそこに帰れるのです。逆に元の生活に帰るのが正解だと言う事であり、それだから進む道を失う事がないのです。
超常的な力を得て、未来的な科学力を得て、哲学的な問いを投げかけても、始めの地に足が付いた普通の日々が良かったと思えれば、それに戻れるように努力する事が正解だと分かると言う事です。帰る所があれば人は道を間違わないと言う事です。
これらの理由により、世界名作劇場的な作品にしたのは正解でしたね。
そもそも人としての物語の良さを表したのが名作劇場なので、それが足りなかったガンダム物にそれが足されたのは、単純に面白さが増しました。
ではこの名作劇場の要素が上手く出来てたのかと言うと、どうでしょうか?
映画版だと端折ってたので、テレビ版だともう少しよかったのかもしれませんけど、それでももっとあっても良かった気がします。
ここで「私のこうしたらもっと良かった」です。個人の感想です。それに出来上がった物に文句を言うのは簡単なのは承知で言います。
まず私ならハイムは姉妹じゃなくて四姉妹にします。若草物語ですね。四姉妹って何気に良く出来てますね。三姉妹だと少なく五姉妹だと多すぎます。
四姉妹位の方がわちゃわちゃして面白かったでしょう(宮崎駿さんなら、これに元気な母とばあさんを付けて、もっと騒がしくする事でしょう)。
ロランも女装にする理由が今一なかったですね。だから私なら、ターンエーを見付けたが隠しておいて、それを裏で使う。そこで女装してローラと名乗り、女海賊にして第三勢力として裏で活躍させます。
たぶん始めは嫌な隣の領主が「この崖崩れを一晩で直せ」とが無理難題を言ってきたのを、夜の暗いうちにターンエーで片付けるとかしてびっくりさせる等の回がある。
そして実際に海賊か山賊が現れ、それをターンエーでロランが解決した時に、誰かの入れ知恵で勢力に取り込み、ロランが海賊としてローラと名乗りだす事でしょう。
もちろん表ではロランとして普通の勢力に混ざっています。たぶん有名なキャラには正体はバレるでしょうし、そうじゃないと上手く動けませんからね。
地球側でも月側でも、裏で自分勝手に行動する人達が出てきて(実際のアニメでも出て来ましたが)それらを裏で監視して排除したりする勢力が必要です。ローラは裏で海賊を名乗りその勢力に近づいて仲間になったり裏切ったりして、ディアナやキエルに得になる様に裏で暗躍させます。
つまり逆リボンの騎士のようなものです。ベタですけどね。
小説版では女のローラとしてどこかの男に好かれるようですね。なんでそんなシーンを入れ無いのかな? と思ってましたが、こんなのもアニメでも出来ましたよね。
さてここでロボットの事です。ターンエーは有名デザイナーに書いてもらったそうです。格好悪いですね。
Gレコも今一です。ブレンパワードも今一です。少なくとも一般的に格好がいいロボットからは、ずらしてます。他のガンダム物の格好良いロボットと比べれば分かりますね。
これはなんなのか? バンダイとか係わってるので富野さんは言わないでしょうけど、私はわざとだと思っています。
戦争もの戦闘ものです。その兵器にあこがれてはいけませんね。何か簡単に格好良くゲームみたいに戦争で戦えそうですからね。だから実際の戦争に憧れたりしない様に、兵器の魅力を無くしているのだと思います。
もちろん「格好悪く描いてくれ」と富野さんは言って無いでしょうけど、もっと「おもちゃっぽく」とかなんとか言って、あまり格好良くない様に誘っていると思います。
そしてターンエーで「どうすれば良かったのか?」です。私はこのアニメのロボットはスチームパンク物で良かった気がしてます。なぜかあっちこっちから煙が出てて、ぎっちょんばったんと動くロボットです。
例えば、ロボットは地中から発掘されたが、所々さびてたりする。しかし元のエンジンや骨組みは劣化しにくい物で出来ているので残りやすい。ただその周りの部品は朽ちやすく、失った所を今の部品で補っている。
だからザクなんかはエンジンと骨組みは金属だが、装甲は木で出来ているとかね。
それで冷却の為に水を流していて、それが蒸発して煙が出ている。長く使うとオーバーヒートしてしまい「燃える燃える」と運転手が騒ぎだすとか。
月側のロボットは近代的だが、地球側は寄せ集めの継ぎはぎだらけのスチームパンクになっている。
しかし月の兵器は科学力がおさえてあるもので、地球で埋まっている物は、逆に隠されて埋められた物だからこそ兵器として性能が良い物だった。
地球側は元が月より性能は良いが、しかし外側が継ぎはぎだらけで、プラスマイナス月と同程度の兵力に押さまる、ってのはどうでしょうか?
この継ぎはぎだらけのロボットだと兵器としての魅力も減り、そしてリアルな兵器とも離れて行くので「あくまでアニメだよ」と勘違いしない作りになるので、良かったのでは無いでしょうか?
大きな「こうしたら良かった」はこうですが、細からな所で気になったのは、やはり最後です。ここは気に入らない。
やはり最後こうするのなら、全てをここに集約されるように演出するべきでしたね。
例えば、ディアナがキエルのふりをして地上に降りた時です。
ディアナが喜びはしゃぎ走り回る。ロランは「キエルお嬢様はどうしたのだろう?」と思う。ここでディアナが今まで鳥かごの様な所で、自分自身を抑えられて暮らしてたのを見せる訳です。
そしてロッジで暮らす老夫婦に合う。その後なぜかディアナは落ち込むわけです。
ロランがどうしたのかと聞く。
ディアナは「私もこの老夫婦の様に、静かに最後を生きていけたら」とか言う。
ロランは不思議がりながらも「キアナお嬢様なら大丈夫ですよ」と言う。
このあとロランと約束するような台詞を入れても入れなくても良いけど、この様なシーンをあらかじめ入れておくべきだと思います。
そして最後にあのシーンに持っていくわけです。
そうすれば約束を守り、皆の為に生きて来たディアナの唯一の願いであり、わがままに付き合ったロランの気持にも皆が乗れるわけです。
こうした前振りがないから、最後感動しないのですね。ここはせっかくの名作劇場なので、ベタで良いと思います。おしいですね。
さて物語の内容のメタファーの事です。
ターンエーは「全ての」を表す記号だそうですね。これはこれまでもガンダムだけではなく、富野さんのロボット物全て(もしくは他の人のロボット物も含め)だと思います。それの総まとめであり。それらのこれからはどう描くべきかを表したのでしょう。
つまりひっくり返したが、またエーから、つまりまた一から始める、を表したのです。
ここで表した大事な事の一つは、これからは単純な敵味方ではなく複雑になるぞと言う事です。それは世界の戦争が単純な敵味方にならないのだから、それらを含めるべきだと言う事です。
そして複雑になるからこそ道を見失わない様に、人としての基本を忘れない様に、人としての昔からの日々の暮らしを見つめ直せ、と言う事だともいます。
このアニメでの昔を「黒歴史」と言っています。これは昔の戦争ばかりしていた時代は「黒歴史」だと言う事ですが、それに加え「ガンダム」も「黒歴史」だと言う事です。
これは過去作の否定です。それは間違っていたと言う事でもあるが、時代が変わったと言う事でもあります。
そしてその「黒歴史」の時に埋められた兵器を、また掘り起こして戦う人達を愚かだと言う描き方です。そしてこれはガンダムをまたやっている自分もまた愚かだと言っているのです。これも従来のガンダムの否定であり、だからこそやるのなら新たな時代の、新たなロボット物の描き方を示す必要があったのでしょう。
しかしこの黒歴史の物を掘り起こしたのが悪い事とは分かりにくいですね。
だからこそ核爆弾も掘り起こす。これは掘り起こしてはいけない危険なものだと分からせる為です。
しかしその核を宇宙で使ったりします。これは上手く使えば役立つと言う事ですが、この辺にまだ自分擁護(つまり掘り起こした自分自身の擁護)がある気がします。
だからアニメ「リーンの翼」でもっと自分否定が、やっと入ってくるのでしょう。
否定すれば良いってものじゃないけど、大事なのは悪い所は悪いと認める事です。
「A」エーはひっくり返すと、「∀」ターンエーになります。
しかし「X」エックスはひっくり返してもエックスのままですね。だからターンエックスが変わらないおろかな奴の兵器なのです。
そして亡霊の様に、バラバラになってもまた元に戻り戦う。過去からの呪いの様な兵器の象徴です。
変わらない男がギンガナムですね。これがまた刀を持っています。
昔に取りつかれた愚かな男と言う事ですが、これが富野さんの親の世代にかぶるのでしょう。戦争に行っていた日本の軍人は刀を持ってましたからね。二次大戦で何の役に立つのでしょうね?
面白いのが、この時は愚かな変われない戦う男がギンガナムで、たぶん富野さんの親の世代の事でしょうが、この後のアニメ「リーンの翼」だと同じく刀を持った変われない愚かな男が迫水と言う男になり、この男は富野さん自身の分身になる訳です。
つまりこのアニメの後のリーンの翼で、変われない戦い続ける愚かな男は自分だと、富野さんは気が付いたと言う事です。気が付き、そしてそれからどうするか? それが大事なのです。
さて、そして「Gのレコンギスタ」に行きつきます。
レコンギスタはレコンキスタと言う言葉から取ってあり「再征服」と言う意味だそうです。
だから「G」は「じじぃ」だと思うのです。グランドファザーでも良いですけどね。
つまり富野さんの再征服だと言う事です。富野さんがガンダムをもう一度自分の手に戻す、つまり再征服してガンダムを再定義する、と言う事です。
「ターンエー」は言ってみればロボット物のこれから向かうべき方向です。変わるべき事を示したとも言えます。ガンダムで言えば、他の要素を足し、他の物に変わって行くべきだと伝えたと言う事です。
しかし「Gレコ」は今一度ガンダムをしてるわけです。
これはあくまで「ガンダム」として変えずに残し、ガンダムとしてこれからやって良い事、やってはいけない事を示し、ガンダムとしてどうあるべきかをやったのでしょう。
これは、どうも「ガンダム」と言うものは変わらず、消えずに残りそうだと思ったのでしょう。富野さんがいなくなっても残ると気が付いた。
そこで思う事は、初代「ガンダム」も「Zガンダム」も今や間違っている。これを子供に残すわけにはいかない。だから新たなガンダムを再定義して、これを次の子供に残すべきだと思ったのでしょう。
岡田さんが言うように「Gレコ」は、ターンエーほど面白くもなく新しさもない。しかしガンダムが残るのなら、富野さんが残す要素を再定義し直す必要があったのです。
そもそも私は、富野さんが物語制作自体はそこまで上手い人だとは思っていません。だから新たなガンダムの面白要素は、今後他の人が目指せば良いと思います。
しかし大事な次の世代に残すべき要素を、示せる人はあまりいなそうなのです。だからガンダムを長く考えて来た富野さんが選び示す事に意味があるのです。
もう一度言いますが、だからこそロボット物の物語制作をする人は「Gレコ」を見て、富野さんの伝えたい事は何なのかを考えるべきなのです。
それに従えと言う事ではありません。考えて分かったのちにどうするかは、自分で決めるべきです。
しかし考えてもみない人には、作る資格は無いのです。
さて「ターンエーガンダム」を見終わって、感想です。
始めは面白かったのに、どうも最後まで見ると今一です。
それは普通の物語要素を取り入れてるのに、普通の物語作りが今一上手くないからでしょう。
面白要素で言うと、富野さんは宮崎駿さんに比べると問題点が大きい人ですね。これは比べる人が悪すぎるのと、宮崎さんも別に完璧な人ではないけどね。
しかし富野さんは今も前に進んでますね。富野さんの作品の主人公級の人は、相変わらず成長しませんけど、富野さんは成長してるのでしょう。
どうも富野さんの物語の主人公は、富野さん自身な気がしてなりませんね。
しかしだからと言っても富野物語が永遠には続かないので、早く次をになう人が、富野さんの考えさえも取り込んだ物語を作って行ってほしいものです。