号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

即興的な演奏

アニメ映画「蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza」見ました。

これを見て頭に浮かんだ事を書こうと思います。ネタバレです。

 

まあ、良いと思います。

思ったのは前の感想と同じなのですが、昔ながらのアニメ的な所は良く出来てます。

しかしその他の事が甘い気がしますね。

しかも材料が良さそうだったので、なお更残念には思えました。

 

ムサシは目をつぶっています。現実から目を背けている、とかを表すので良いのですが、今一上手く使えてはいない。

群像の父がいるが偽物です。これも「力を持った子供が、自分の都合のいい偽物を作り、それにすがっている」と言うシーンになるのに、上手く使えて無かったですね。

 

ヒエイはムサシに「私たち既に幸せだ」みたいな事を言われる。まずムサシ自体がそう思えていない。ヒエイも分からない事の恐怖から、変わる事の恐怖が生まれ、その言い訳として「変わらなくても幸せだ」と思おうとする。正しいかどうか考えるのではなく、逃げとしてその言葉にすがっているのです。

ここは現在の学校や会社のルールに、何も考えずただすがっている人と被る良い内容ですね。しかもコンゴウ自体が前まではそうだったので、それと対峙するヒエイはもっと葛藤が出来た筈です。この辺はあっさありし過ぎてました。

 

コンゴウがイオナに「イオナが消えても私は覚えている」と言います。私が嫌いな「誰かが覚えていれば存在が残る」理論です。これは宗教ですよ。科学では無い。なら誰かが覚えていれば死んでもいいとでも言いうのでしょうか?

 

ヤマトはムサシに倒されたのに「あなたを諦めてしまった」と言いました。ここも良いですね。

実際にも親が子に、または姉が妹に攻撃をされ、しょうがないとあきらめて攻撃されたままにする。それは他人から見ると子を親が受け止めているように見えるが、実は諦めです。そして見捨てたのと同じです。心から向かってくるのに無視を決め込んでいるからです。だから本当は立ち向かわないといけない。

難しいのはその方法ですが、時と場合ではひっぱたいても良いじゃないのかな? と思っています。間違えて虐待にならなければね。

アニメではこの事を表せそうでした。だから今度は「ヤマトが立ち向かう」と言うシーンになるので、あっています。この問題を描いたアニメは見かけないので、上手く描けたら良かった気がしますが、見てる人には伝わってないですよね?

 

そして最後イオナがいなくなります。これは何なのでしょうね?

まず第一がZガンダム理論ですね。消して終わらせる。そして見てる人を現実に戻す。

でもこの理由で消すのなら、全てのメンタルモデルを消し去るべきです。そうした方が盛り上がるし、決着が付いて良かった気がしますけどね。皆が動かなくなり海に沈んでいくとか。

もしこの後また復活して続きをやりたくなったら、全員を復活させれば良いだけですからね。何かの理由でまた動き出した、とすればいいだけです。

 

もう一つの理由は、たんに盛り上がるからですね。その方が心に残ります。

ラ・ラ・ランド」がそうですね。これは最後急に分かれて悲しい話にするので、盛り上げと、心に残すためにやったのだと分かる内容です。

それとハッピーエンドでも自分と比べると悲しくなる人もいる。他人が不幸だったら自分も「あるよね」と見れるのです。だからこの方が不満は少ない。

でももしそうするのなら、始めからずっとそうなる予感を出すべきでした。そして一緒にいると良い事もあるけど、ケンカも絶えない、としておけば最後分かれても見てる人が納得できたはずです。(いやそうなってたけど、言いたい事は、一緒に暮らすには相性が悪いと描くべきと言う事です。別に暮らした方がどっちも幸せだと思わせるべきです。あれではやり直せそうじゃないですか?)そして若い時のいい思い出として終われたはずです。でも前振りが無いから、ただ盛り上げのために分かれたのだとしか見えないのです。

アルペジオもそうです。前振りが甘いから、ただ盛り上げと心に残すだけの理由でこう言う風に作ったと思われる。

 

(私は少し前にメンタルモデルを全て消した方が盛り上がると言いました。私的にはこれは強い感情に訴える意味ではない、盛り上げです。つまり悲しくさせる意味で消すのではなく、夢の終わりを表す意味で消す。しかし最後悲しくさせようとする内容なのに、盛り上げるためだけに無理やりやっていると分かると、冷めるのです。だから盛り上げる事が悪いのではなく。いつ、何に対して、どのように? が大事だと言う話です。)

 

最後終わらせるだけの理由で消す富野作品も「どうかな?」と思えてきました。

アニメ「リーンの翼」でもヒロインが最後消えるのだが、消えなくても良かった気もします。作りが上手ければ、夢の存在が残ったのでは無く、ただ外国人が日本に残った位に感じられるはずです。だから別になんでもかんでも消す理由もない気がしてきました。

最近オランダ映画「猫のミヌース」を見たのですが、これは大体が子供騙しな内容です。そして猫から人になったミヌースが人のまま戻れなくなり、主役の男と結婚して終わりです。一見気持ち悪い終わり方ですが、猫から人になったミヌースも「外国人位に思えればこれでも良いのかな?」と思えてきました。もちろん暗喩としてです。

現在はそうでもないですが、江戸時代より前だと、外国人も異星人位に感覚的に思えた筈です。しかし一緒に暮らし、結婚もして子供も生まれれば「なんだ同じじゃないか」と思えてきた筈ですね。

だからそれが異星人でも元が猫でもメンタルモデルでも、暗喩として「二次元なお友達」や「二次元嫁」ではなく「昔の人から見た外国人的な者」と見えれば、それでいい気がしてきました。

アルペジオがもし終わらせる理由でイオナを消したのなら、それもする事もなかった気がする、と言う事です。

 

エンディングの最後にブローチが落ちていて「お帰り」と群像が言う。

これはどっちでも取れるようにしたのでしょう。イオナが帰ってきたか? 誰かが墓参りに来たか? です。

これは一見上手くやってるように見えるが、そうでもない。

それは前に言った様に、イオナだけが消える理由が無いからです。

消える理由が無いのに消えたのなら、それはただの盛り上げです。

そして消える理由が無いのに消えて、実は生きていたもただの盛り上げなのです。

理由も無いの「生きてるかな? 死んだのかな?」とやられても、鬱陶しいだけです。

 

最後まで結局「霧」は何だったのか出ませんでした。

でも前に言った様にそんな事はどうでもいいと思わせる物語なので、これであっています。

しかし盛り上げるのなら群像に「何かなんて関係ない!」と言わせるべきです。

しかし群像は「何かだったかは関係ない。今は何かが大事だ」と言います。時系列の問題で、言ってる事は同じですが、私は「今」も何かなんて関係ないと言うべきだと思います。そして「今後どう生きるかが大事だ」と言うべきだとも思います。この辺も甘い。

 

材料は良いのに、今一料理がよろしくない。

Cadenzaは即興的な演奏だそうです。

普通は即興ではなく、考えて練るべきですね。

 

 

2021年 1月 8日 追加

 

劇場版一作目は「DC」でしたね。この意味はそこから読み取れるもの全てで一個の意味では無いようです。

しかし普通に考えれば「ダカーポ」ですね。始めに戻りまた始めると言う事でしょう。

この他の「アルペジオ」も「アルスノヴァ」も「カデンツァ」も全て音楽用語ですしね。

そしてこれらの意味も、ちゃんと内容にあってる様に考えられてますね。

そう、材料は良い。頑張っている。

だからこそもう一歩と思わずにはいられない話でした。