アニメ映画「スカイクロラ」感想です。ネタバレです。
押井守作品ですね。面倒くさそう……失礼、面白そうですね。
押井さんの「映画50年、50本」と言う本を読んでいたので、なんとなくやりたい事が分かりました。読んでなければ謎映画でしたね。
本では50年の中で51本映画を上げて、その中で思った事を言ってました。
そうすると、映画一本にかけて言う事は大まかになるが、逆に押井さんの大事な所のみが出てたと思います。なので押井本はこの本しか読んでいないのに、なんとなくやりたかった事分かった気がします。
押井さんは「ダレ場」が大事だと言ってました。それに、映画だけに流れる何も起きないダレてるような時間が好きなようです。
確か、自分自身でも「ライフルでも担いで森を歩きたい」みたいな事を言ってたと思います(うろ覚えです)。「ライフルを撃たなくても良い」とも言っていて、銃を撃ったり戦うのでは無く、その少し緊張してるが何も起きない漂う時間が好きみたいです。少し分かりますね。
そしてその感じをかもし出すのは、映画だけだと言う事です。
この映画「スカイクロラ」はその「ダレ場」でほぼ出来た映画でしたね。
好きな事であり、大事だと言う事を、映画全体を通してやってみたのでしょう。
長いダレ場は実写映画にとってもそうですが、アニメでは特にあまり見ない事です。
しかし上手くやれば味が出るので、良い事だと気が付きました。
それを見てる人や、特にアニメの作り手に見せる事が出来たので、価値がある作品かと思います。
そう、価値はあると思いますが、面白かったかな? と言うとそうでもないですね。
逆に面白くもなんともないのに、見てられるシーンになっています。そこに感心して見ていました。
他のアニメで、もっとダレてないシーンでもつまらなく、見てられないシーンも沢山あります。
しかしこの映画は見てられる。
流石に、このダレるようなシーンを追ってきた人が出した一つの答えなのでしょう。だからためにはなると思います。
なぜ見てられるのか? それは謎なのですが、一つ分かったのは「音」ですね。
確か本でも「音楽が大事だ」と言ってたので、音楽以外の音も大事だと分かってる人なのでしょう。
そして「音」も大事なのが分かる映画でした。ダレてるシーンを「音」でもたせてる映画だと思います。
目が大事なのは分かりますが、実は音とか匂い(臭い)も大事ですね。
例えば、昔の記憶をよみがえらせるのは、目で見る物と同じ位、音や匂いが大事だと思っています。
なれると人はあまり見なくなります。家族の顔や姿をじっくり見る人がどの位いるのか? たぶんあまりいない筈です。なんとなくの存在を目のはじに感じているだけで、はっきりは見て無い筈です。
他の物もそうです。なれている景色はあまり見て無いものです。
その中で、実は音はずっと聞こえています。家族の顔は見なくても声は聞こえてくるからです。長くいる家族の顔は見なくなっても、声を聞く時間は変わらないのです。
匂いもそうです。見なくても匂っては来るのです。
だから長く一緒にいた人や場所の記憶に残るのは、音や匂いになってくるのでしょう。
だから音をリアルに表すこのアニメは、臨場感が出てましたね。絵よりも音の方が臨場感が出るなんて、面白いですね。
そして臨場感が出るから、日々のなんともない日常を感じ取れる。日々のなんて事の無い日常は「飽きたな」と思わないものです。だから飽きないで浸ってられたのでしょう。
この「音」が、押井さんが出した一つの答えだった気がします。
ちなみに、押井さんはこの映画で「若い人に生きる意味を伝えたい」と言ったそうです。
まず大前提として、そもそもこの言葉は本当かな? と思っています。
もちろん嘘では無いのでしょう。その要素もあるのでしょう。
しかし私には押井さんが好きな「映画でしか流れない漂うような時間」をやりたかっただけじゃないのかな? と勘ぐっています。
一つ考えれれるのは、外に向けたメッセージです。まさか自分がやりたい事をやりました、なんて言えないから理由を付けて言ってる。
もしくは自覚が無いのにそう思い込んでいるかです。自分に対する嘘です。人は自分にも嘘をつくのです。
学校の先生がたまに言ってたのが「先生が怒ってるのは、怒りたくて怒ってるんじゃないんだよ」と言う事です。まあ、嘘です。
でも本当です。怒りたくて怒ってはいないし、怒りたくて怒っているのです。
何を言ってるのかって? この二つは成り立つのです。
先生が言ってたのは「怒るような生徒でいないでほしい」と言う事です。そういう意味では怒りたくて怒ってはいない。
しかし「怒るような生徒であった」から、頭にきて怒ってるだけです。この時は怒りたくて怒ってるのです。
つまりこの相反する二つは両立します。
しかし先生が「怒りたくて怒ってない」と言うのは言い訳ですね。誤魔化しで嘘です。なぜなら聞いてる人も、言ってる本人も「悪い生徒で頭にきてるから怒っている」と言うのは考えて無いからです。だから伝わるメッセージとしても、自分自身に対しても嘘でしかないのです。
人は自分にも嘘は付けるのです。
せっかくなので、他の例も
昔ジャニーズの堂本光一がテレビで「女は結局自分に都合のいい男が良いんだろ?」と言ってました。
それに誰か女の人は反論してましたね。
ではどっちが正解か? これも両方です。
「別に都合が良くなくても良い。お金がなくても良い。あなたが福山かキムタクならね。でもあなたはキムタクじゃ無いのでしょ? ならいくら私の為に金を積めるんだよ」と言う事です。
しかし女は誤魔化しの為に都合のいい所だけを言って「別に都合がいい男じゃ無くてもかまわない」と綺麗事を言うのです。
別に女だけじゃなく男だって同じです。都合のいい所のみ言って誤魔化す。それは他人にもそうですが、自分に対してもそうです。
そしてそんな事をずっと言っていると、段々自分自身もそうだと暗示がかかって行くのです。自分の嘘を、自分で信じて行くものです。
「これは君の為なんだよ」とか「皆やってる事だよ」とか言う時は、だいたい怪しいですね。
つまり人は自分自身にも嘘を付ける動物です。気を付けましょう。
話を戻して
押井さんは本当に若い人の為にこの物語を作ったのか? は謎だと言う事です。
この事は、押井さん自身に聞いても分からないかもしれないと言う事です。
そして同じような事として「もののけ姫」を作った宮崎駿さんもそうです。この時宮崎さんは「これを今作らなければいけなかった」と言うような事を言ったようですが、それが本当かは自分自身でも分かってはいないと言う事です。
噂によると、そもそも宮崎さんは理由を後付けする人のようです。だから色んな作品を作った理由を色々言いますが、私はその言葉をあまりあてにはしていません。
では仮に、押井さんがこのアニメを作った理由が本当だとします。本当に生きる意味を教える為に作ったとします。
ならあまり上手くはないのです。
この作品は、間違ったメッセージを伝えるかもしれない作りです。だからよろしくない。
ちなみに「もののけ姫」も上手くはないですね。押井さんも宮崎さんもスピルバーグも、メッセージが一番大事な話はあまり上手くはないので、やらないでもらいたいですね。
じゃあ誰が上手いのか? と言うと、誰でしょう? になります。
アニメ「ピンドラ」で上手かったイクニさんも「ユリ熊」では上手く行ってたようには見えませんでした。「ユリ熊」は考えればあってる気がしましたが、難し過ぎて誰もたどり着けない気がします。だからあれは正解では無いでしょう。
富野さんも近年分かりやすくメッセージを入れてきてますが、ここまで来るのにどれほど彷徨ってきたのか? を考えると、誰が他に出来るのだろう? と思います。
高畑さんもひょうひょうとしていて、メッセージがあっても、あくまでやりたい事の一要素な気がします。これはあまり気負いしないのですみそうなので、やり方としたらあってる気がします。
そもそもがメッセージありきな作品を作るのは難しいですね。
だから難しい事を自覚してやるか、やらないかです。あくまで隠し味位に留めておく方が、普通はいいと思います。
で、もう一度言いますが、押井さんも宮崎さんも、深層心理ではメッセージは二の次な気がしますが、どうでしょうか?
YouTubeでスカイクロラを検索したら町山さんと言う方の動画が出てきました。映画評論家の方ですかね?
町山さんが言うこの映画の問題点は、ざっと言うと「ループを繰り返す物語にすると死に対する事が麻痺していく」と言うものでした。この映画の中では戦闘中でさえも死の恐怖がない描き方だ、と言ってました。
これは見ている子供が(大人も)死んだら終わりと言う価値観が麻痺していく物語なので、良くないと言ってましたね。その通りだと思います。
たぶん押井さんが言いたい事は違うのだろうど、そう言う風に多くお人が見える時点で、そういう映画なのです。だから危険だし良くないし上手くはないのです。
同じくYouTubeで、宇多丸さんのが出てきました。この人が言ってたのも同じような事だと思います。
ループ物でキャラに死の恐怖が無い。監督は何か辛気臭く世の中に訴えようとしているが、何が言いたいか分からない。
上手く出来ないなら、うる星やつらの映画「ビューフルドリーマー」のように楽しく生きて行けばいいのに、そうもしない。
普通の物語なら、戦っていて明日死ぬかもしれない状態だから、頑張ってこの一瞬を輝いて生きようとする物語にするが、だらだら日常を生きている。
普通は、死ぬかもしれない状態だから、死の恐怖や生きてるありがたさが分かる物語になるが、キャラは死の恐怖が無いので、何が言いたいか分からない。
不老不死なのでなお更死に対して分かりづらいのだが、なら無限に生きる事の葛藤を描くのが定石だが、上手くない。火の鳥位の葛藤を描けばいいが、そうなってない。
世間の状態も、社会のガス抜きでしている戦争をただ見て言いて、問題意識はない。ちなみに娼館にも問題意識もない。
キャラ自体にも問題意識が無く、そこから逃げ出し戦うのを止めようとすればいいが、止めようともしない。
勝てない敵が「父」であると言う描き方なのだが、それに戦い負けて死ぬ。永遠の子供が父に戦い、やはり勝てずに負ける。
つまり「何を言いたいのか? が分かりづらく、間違った事を言ってるようにも見える」と言う事らしいです。その通りです。
これもたぶん押井さんが言いたい事は違うが、そう見えるので、そうとらえて怒る人がいてもしょうがない映画です。
文句は他の人が的確にしてくれてるので、今回私は概ねフォローに回ろうかと思います。
感想で、戦争観や死がいいかげんだとありました。
押井さんはこの映画で、本当はアクションシーンを入れたくなかったそうです。しかし原作があり、しかもこの作りでアクションを入れないと客が入らない。つまりお金を出した人に元を取らせるために、大人としてアクションを入れたようです。
つまり押井さんはそもそも戦争をしている気が無いのでしょう。原作にあるし、しょうがなく入れているだけなので、戦争観がいい加減なのでしょうね。
たぶんチャンバラをしているような感じなのではないでしょうか? 時代劇では最後片っ端から切って殺していきます。殺された人はたぶん悪者だけではない。しかし「暴れん坊将軍」以外は殺していきます。それでも誰も不思議がらないですよね? だから押井さんもそんな気分なのでしょう。
そうは言っても、時代劇は皆が不思議がらなくて、この映画では皆が死がいいかげんで気持ち悪く思うのは確かです。つまり良くはなく、上手くはないですね。
死がいいかげんなのは? これはこの映画の主題から話す必要があります。
最後優一が話す事が、押井さんが言いたい事でしょう。
「同じような日常を繰り返しているようで、実は少しは景色が違う」「同じ道を通っていても、道の違う所を歩いていて、まるっきり同じではない」と言うような事を言います。
つまり「同じような日常をただ繰り返すだけでも、そんなに悪い事でもない」と言いたいのだと思います。
そしてこれに係るのが映画の作りです。大した事のない日常をただ描くこの映画です。そして大した事の無い日常のシーンでも、なんとなく見れるものにしてます。(これらのシーンは面白くはないですが、逆に面白くない物を見れる所まで仕上げてる手腕はすごいのでしょうね。)
それが、なんて事の無い日常も悪くはないし、そんなものが人生のほとんどだろ? と言うメッセージにもなっている。つまり戦争をしている彼らだって、ほとんどは日常なので「日常だけのなんて事の無い生活の人でも、実はあまり変わらないのだよ」と言うメッセージになってる気がします。
これが、現実に生きている若い人に対してのメッセージでしょう。
若い時はまるで永遠の時間で生きてる気がするものです。それは幻だと20代後半には気が付いて行くのですが、もっと若い時はずっとこの時間が続くがごとく思ってるものです。
その中で、何にも感情を高ぶらせる事が出来なかった人達。趣味やスポーツや仕事に人生をかけれなかった人達。まるで生きてるのか死んでるのか実感できない若者。その象徴が優一なのでしょう。
しかしそんな人生でも「大きなストレスもなく生きていけてるのなら、別にいいじゃないか」と言いたいのだと思います。
宇多丸さんが「戦争から逃げればいい」みたいな事を言ってたと思います。それは正解です。物語としても、その作りの方が正解でしょう。
しかしです。皆が逃げれるわけでは無い。逃げれずそれに流されて生きて行くしかない人もいるのです。現実で今の状態から逃げれる強さを持っていない若者にも「そう言う人だって別にいいじゃないか」と言っていると思います。
強い人、成功した人から見れば、こんなのは弱さなのでしょうけど、しかし皆がそこまで強くはない。「そんな人生でも、そこまで悪くはない」と言う物語なのです。
しかし、優一は最後ティーチャーに戦いを挑む。
ここが分かりずらく、間違ったとらえ方をしがちな場所ですね。
しかしこれは間違ったとらえ方が出来る作りの方が問題だと思うので、作り方の問題だと思います。
優一は死にも恐怖が無い。しかし今の現状に不満もない。それに高ぶる心も持っていない筈なのに、ここで勝てなさそうな奴に戦いを挑むのです。
これは愛する人に生きる意味を伝える為です。なんだって不可能ではない事を、君の未来の為に命をかけて何かをする奴がいる事を、証明する為です。
ここで勝てればいいのですが、負けます。これが現実です。現実はそんなに上手く行く訳が無いのです。これも間違いやすい所ですね。
頑張っても無駄だととらえやすい。死に恐怖もない奴の無謀で無茶な行動を肯定するようにも見えます。どっちもろくなメッセージでは無いですね。
しかし言いたい事は生き方です。結局どう生きるかは自分次第です。そして自分が納得した人生かが大事なのです。自分にとったら自分自身が認める人生なのが全てなのです。他人の意見なんて関係ないのです。
優一は、流されて戦って同じ毎日を続けるだけの人生を肯定いていた。それでもそこまで悪い人生では無いと思っていた。そう思っていたのなら、それで構わないじゃないのか? と言う事です。
そしてその後無謀に見える命をかけた戦いに挑む。これも自分が納得した挑戦ならいいじゃないのか? と言う事です。例え死んでもです。
これも危ないメッセージですね。しかし最後は納得して死んでいくか? 納得しないで生きて行くかは、自分で決める事です。
だからバーの前に爺さんがいつも座っているのです。
この映画の感想で、皆「死ぬような無謀な挑戦はいけない、生きる事を若者に言うべきだ」と言います。一般ではその通りですが、しかし生きている事を選んだバーの前の階段に座っている爺さん、これで正解なのか? と言う事です。生きていても意味が無い事もある。なら納得した挑戦で死んでも、その方がいいじゃないのか? と言う事だと思います。
つまり、つまらない日常の繰り返しでも、無謀に見える挑戦でも、どちらでも大事なのは「自分にとって本当に納得した人生なのか?」と言う事です。
そして最後のシーンです。
たぶん優一は仁朗(じんろう)のクローンですね。そして最後の出て来た男が優一のクローンです。これは何なのでしょうね?
一つの可能性は、輪廻転生を信じている。だとしたら個人的には気持ち悪い話ですね。
もう一つは、この話をSFと考えたら、クローンは双子の弟の様なものです。物語上でも記憶もないようなので(映画版では)、やはし双子の兄弟でしょう。つまり別人です。だから双子の飛行機乗りがちょこっと出て来るのかと思います。つまり双子は別人だと言ってるのだと思います。
では別人だとしたら、なぜラストシーンで出て来るのか?
それはこの話をメタ目線で見ると分かります。
押井さんは、この話を自分の人生に置き換えて、若者に見てほしい筈です。
しかし若者が生死をかけた戦いに挑むことはまず無い。だとすれば最後の「父」事ティーチャーへの挑戦は、現実では生死をかけてない父に対する戦いだと言う事です。
だとすれば、失敗しても死ぬのでは無く、死ぬほど辛いくらいです。
そうだとすればまだチャンスがある。それを生まれ変わった奴に例えて、また始めから生まれ変わった気で戦い、こんどこそ父を倒せと言う物語に見えます。
でももう一つの考えの為に、メタ目線では無く、もう一度この世界に降り立ちましょう。
このシーンで大事なのが優一では無く、草薙水素ではないのか?
優一と始めて会った時、水素は前向きな人生ではなかったはずです。これは前任者の仁朗が原因ですね。それで生きる意味や生きたいと言う気持ちがなくなっている状態でした。
しかし最後のシーンでは前向きです。生きる意志が見えます。これは優一の影響です。
優一は戦い、死にました。
しかし水素に生きる意味を与えた。「生きていていいのだ」「生きていてほしいと思う人がいるのだ」と言う前向きな人生に変えたのです。
命をかけ、たとえ失敗してもその時の気持は誰かに残る。だから失敗しても良いじゃないか? と言う物語です。
優一は最後、愛する人に生きる意味を与える為に無謀な戦いを挑んだのです。
そして失敗した。
しかし無駄な人生ではなかった。願いだけは残ったのです。
スカイクロラは大空を這う者です。
大空を這っている人を見かけたら、なんて思うでしょうか?
「何やってるんだよ!」と文句が出るでしょう。それであっています。
しかしです。そこに不器用だけどジタバタと何かを成し遂げようとする姿が見えませんか?
そこに何か気持ちを感じ取れた人がいたのなら、この映画は無駄では無かった。
願いだけは残ったと思いたいですね。