号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

アンが必要とする人々、アンを必要とする人々。

アニメ「赤毛のアン」一話と二話のみ見直しました。

考察です。ネタバレです。

 

ネット動画で細田守さんが高畑さんの事を言ってまして、その中で赤毛のアンの事を褒めてました。「他にも実写版とかがあるけど、このアニメ版が一番いい」と言ってました。

私も昔何話か飛び飛びで見て、面白かった記憶があります。大した事は起きないのに面白い作品で、不思議な印象は残っていました。

そこで細田さんが「一話で家にも付かない」と言ってたのを聞いて、とても興味が出たので見返してみました。

なるほど。これは「高畑さんは、かましてきてるな」と言うのが印象です。

 

普通は一話は気合を入れます。一話がつまらないと見てくれないからです。途中は少し位つまらなくても、惰性で見てくれますので、とにかく一話ではかましてくるのです。

しかし「赤毛のアン」では孤児院から、始めてここの駅まで来たアンを、マシュウが馬車で迎えに行き、馬車に乗って長々家まで戻っていくだけの話です。

淡々とした馬車の音とアンのおしゃべりの中、ゆっくりと景色を見ながら駅から家まで行く話です。しかも一話の最後でもまだ家に付かないと言う話なのです。

この刺激のなさそうな話を一話にもってくる。なぜか?

一見刺激のなさそうな話でも、上手くやれば見れるどころか、客が興味を抱き続きを見たくなるものを作れる、と言う自信が高畑さんにはあったのでは無いでしょうか?

私には「これこそが物語であり、これが演出だ」と良いってる様に見えました。だから「かましてきてるな」と感じた訳です。

 

ではなぜ見れるものになってるのか? どこが上手いのか? を書きますが、これは原作者のモンゴメリが上手いのも含まれます。流石に売れた小説なので上手い訳です。

それを上手く演出したのが高畑さんです。物語の大事な所が分かっている人だ、と言う事ですね。

いったい誰なら「一話で馬車に乗り最後まで家に付かない」と言う物語を作れると言うのでしょう。普通は一話途中で家に付きます。上手い人でも最後家に付いたあたりで一話が終わります。しかし高畑さんは付かない。二話冒頭でもまだ付いてなくて、少し馬車が進みやっと着きます。「やりやがったな」と言う印象ですよね?

 

この馬車に乗り淡々と家まで景色をゆっくり見ながら進む、と言うシーンを見てると思い出すのが、押井守さんが本で言っていた「ダレ場」と言う言葉です。

一見ダレているような淡々とした時間が、途中に必要だと言っていました。

これがあると雰囲気も世界感も出るし、緩急が付き、最後の盛り上がりにも上手く効いてくるわけです。

赤毛のアン」では一話からダレ場です。でもこれは狙った訳では無いでしょう。原作がその様だから、たまたまそうなった。でもそこを見逃さないのが素晴らしいですね。始めからダレてるような場面でも、内容とやり方があっていれば通るのだと分かっていた。いや、この場面では「通る」どころでは無く「より素晴らしくなる」とさえ思っていたのでしょう。

そしてこれを見ると、ダレ場の演出の仕方の一つの答えが見えてくる気がします。なぜなら飽きずに見てられたからです。上手くやればダレ場でも見てられる事を表しています。

 

大事な事の一つ目は、孤児院から子供として引き取るのは「男の子」の筈だったのに、駅にいたのが「女の子」だった、と言う所ですね。

マシュウは懐中時計が止まっていて駅に着く時間に遅れる。なのでアンを連れて来たスペンサー夫人に合えず、アン一人しか駅にいない。しょうがないので家に連れて帰るのです。

マシュウが人付き合いが悪く、話もぼそぼそとしかしゃべらない。しかも結構な年になっていて、もはやおじいさんに近づいている。丁寧にナレーションで女が苦手だという説明もある(ちなみに、このナレーションいらないですよね?)。

馬車に乗っているとアンはぺちゃくちゃしゃべりだす。すると女が苦手なはずのマシュウが、アンの話では心地いいと思ってしまう。苦手だからこそ心地いいアンのしゃべりは特別なのです。なので早くもマシュウはアンを気に入ってしまうのです。

しかし男の子が必要だから孤児院からもらったのです。年老いてきたマシュウの畑仕事を、今後する筈の為の男の子だからです。だからこの女の子はダメなのだと思う。家に帰り妹のマリラはこの子を孤児院に返そうとするだろうし、そもそもそれに反対する理由も無いのです。しかしアンはここに来れた事を喜んでいる。だからこそふびんでならない。

変わっているが魅力的な所もあるアンに、乗れている子供がこの時点で思う事。アンは孤児院からここにもらって来られた事を喜んでる。だからこの後にアンの伝えられる運命「君が来たのは間違いだった」が分かると可哀そうだと思う。

マシュウに乗れているおじさんやお父さんも、マシュウはこの子と別れるのは残念だろうし、この子に本当の事を伝えるのがつらいだろう、と思う。

つまり、この時点で皆が気になる事がずっとあるのです。「間違って孤児院から女の子が送られてきた」と言う事です。これが気になるから、考える事があるから、ただ馬車に乗り景色を見るだけでもつまらなく無いのです。

しかも更に上手いのが、皆が思うの事が「家につかないでくれ」だろうと言う事です。今が素晴らしい時間だとアンもマシュウも思っている。見てる人も思っている。その夢の時間を壊す事が、家に着くと待っているのです。だからつかないでほしいと思う気持ちが、この退屈になりがちな時間に価値を与えている。更に「この退屈な時間が素晴らしいのだ」とさえ思える作りなのです。上手いです。完璧ですね。

 

細かな事では、マシュウは独り者です。マニラも独り者で妹です。ここも普通とは少しずれているので、気になるのです。なぜ独り者だろうか? マシュウは女が苦手で人見知りしそうだから分かるけど、ではマニラは? と思う。

アンは孤児です。これも少し気になる。親はどうしたのだろう? この時代のこの国の孤児はどんな風なのだろう? 孤児院ではどうだったのだろう? この子は夢ばかり見てるようだが、それも孤児による影響だろうか? 男の子が働き手として養子にむかえられる時代です。なら女の子はどうなるのだろう? 等です。

これらのちょっとした気になる事も、このダレそうな場面で効いています。考える事があると暇では無いのです。

この辺の話は原作の上手さでもありますね。

 

アンの話の内容です。夢見がちな妄想を言っています。

しかしだからこそ害が無いのです。自分の中で解決している事だからです。

誰かの噂話でもなく、悪口でもなく、愚痴でもなく、恋の話でもない。どうでも良い事なのです。

だからこそ、アンが悪い子ではなく、素直な子なのだとも分かる。自分を隠してもいないのだとも分かる。

これらの事があり、無口で他人が怖いマシュウには、アンの話は心地が良いのです。

それにアンのしゃべるスピードです。おしゃべりですが早すぎません。おしゃべりな人はもっと早口になるか、まくしたてる様になったりしがちです。つまり節度をわきまえているのです。

それに所々マシュウにも話を振りますね。これも丁度いい。あまり聞きすぎると鬱陶しい。しかしまるっきり聞かないと、マシュウに興味がなく、アンが自分勝手すぎるように見える。

では話し上手なのか? と言うとそうでもない。話し上手な人は、ほぼ相手にしゃべらせます。ほとんどの人は男も女も自分がしゃべりたいのです。だから相手にしゃべらすのです。

しかしアンは自分がしゃべっている。でもマシュウだから丁度いいのです。あまり自分からしゃべるのが得意でも好きでもないマシュウには丁度いい。

それに話し上手では無い所も、アンは計算高くない素直な子ではあると言う証拠であり、上手いですね。

この事からも、マシュウと言う人間には、アンと言う子供がピッタリなのだと言う事が分かる話なのです。マシュウの心はアンに既に捕まっているのです。

 

演出として、綺麗な花咲く木の間を抜けると、ピタッとアンがしゃべらなくなりますね。これも上手いですね。ただ狙いすぎな様にも見えますが。

ずっとしゃべっていたからこそ、止めると気になるものです。

ここは、アンはどんな気持ちなのだろう? と嫌でも皆が考えますよね。マシュウもアニメを見てる人もです。

これはアンはひたっているだけなのか? しゃべると口から素晴らしい思い出が出て行ってしまうと思っているのか? 素晴らしい事があると、その後悪い事が起きるのでは無いのかと思っているのか? もしくは昔は起きた事があったのでは無いのか? と勘ぐってしまいますね。

 

それとアンは可愛くないですね。見た目です。

でもこれも良いですね。アンが可愛いと、女の子が見ると「可愛いから好かれるのだろ」とうがって見てしまいます。

男の子が見ても可愛いと内面を見ないで、外見しか見なくなりがちです。

この話はアンの見た目が可愛いと、大事な所が見えなくなるので、この絵柄で正解ですね。

 

そしてそれぞれの思いを乗せ、馬車はゆっくり歩いて行きます。

「ああ、付かないでくれ」と思ったまま、本当につかないまま一話が終わるのです。

見事ですね。かましてきますよね?

ここは長く伸ばした方が魅力的な話になると分かっていたとしても、一話目でこれをやる。よっぽどの自信があったのでしょう。

 

二話でマニラに会います。この人も面白いキャラですね。

昔はただ怖いおばさんに見えましたが、今見ると味のあるよく出来たキャラでしたね。

マニラはアンの妄想を聞いて「この子は何を言ってるんだい?」と困惑はします。しかし否定しないのです。ただ必要な事だけを言います。アンが自分をコーディリアと呼んでくれと言っても、アンはちゃんとした名前だと言い、アンと呼びます。面倒くさいからとコーディリアと呼んだりもしない。怒らない。けなさない。

アンが寝る時、靴をまとめ服をたたんでくれる。そして「よくお休み」と言うと、アンが「なんでよくお休み何て言えるの? 私にとってこんな酷い晩は初めてだと分かってるのに!」と怒ります。しかしそれにもマニラは怒りませんね。愚痴すら言わない。

 

この時代は男の子を働き手として養子にもらう時代です。今の様に可愛いからと女の子をもらうなんて、金持ちでも無ければ出来ない時代です。だから甘っちょろい感情だけでは生きてはいけないのです。アンみたいな孤児には、特にそうです。

アンには厳しい人が必要なのです。それがマニラです。

 

しかしマニラはアンの妄想を否定しませんね。それはアンの人格の否定になるのです。ただ大事な所は曲げない。アンの名はアンと呼ぶのです。

普通は怒りますね。もしくは頭がおかしいとかと言って人格を否定します。もしくは鬱陶しいので止めろと言う。しかしマニラは言いません。実際の世界でも、意外とこれは難しいものです。二話までの感想だと、マニラは良く出来た人なのです。

実はこれは監督もそうです。マニラに愚痴の一つも言わせないのですからね。良く分かって無いと出来ないでしょう。アンがマニラに怒った後「人が親切に言ってあげてるのに」なんて愚痴をしゃべらす演出を入れたくなりませんか? それすらしない。見事です。

 

アンにとったらマニラが必要な人なのです。二話でこれが明らかになります。

しかしやはりマニラだけだと厳しすぎる。それは見てる私達にもです。だからなんでも受け入れてくれるマシュウがいる。アンにはマニラとマシュウ二人が必要なのだと分かる物語です。

そしてアンにとって必要な人になったマニラ自身も、これで救われるのです。「誰かにとって必要な人」になる事は、自分に価値があると言う証拠になるからです。生きる意味が出来るのです。もちろんマシュウもそうです。

年を取ってくると、若い元気な子供がいるだけで自分も元気が出る。この子がいるからとやる気もでる。

それらも踏まえ、アンとマニラとマシュウ、この三人は助け合って生きていける、それぞれにとって大事な三人になれるのだ、と言う物語なのです。本当良く出来てますね。

 

この二話だけで原作者と高畑監督のすごさが伝わりますね。

 

モンゴメリは30代でアンシリーズを始めて出したようです。この人はアンシリーズ以外の作品は聞かないですね。

高畑さんはこの時40代ですね。この人は年をとって行くと一般受けからは遠ざかって行ったように見えます。

マニラとマシュウにはアンがいましたね。年寄りにはアンが必要なのです。

モンゴメリと高畑さんにはアンはいたのでしょうかね?