号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

主人公はHeroではない。

主人公とは何か? 第二回です。

 

前に私は「主人公とは物語と等価だ」と言いました。(2020年7月16日)

もっと言えば、この二つは同じ物ともいえる。

もっと正確には、物語と同じものと言えるものが主人公だ。

 

しかしよく考えると、主人公には二つの意味があります。広義と狭義です。

狭義では、私の考え通りだと思います。主人公の為にある物語の、一番主なる者が主人公です。

広義では、ただの主要登場人物、すなわちメインキャラクターです。

この二つの意味は、多くの人がその二つがあると分かっていて、それをその都度使い分けている物です。

なので私も主人公をメインキャラクターと言う意味で使っている時があります。これは自分で言っておいた内容とずれると思いましたが、そう言った方が通じやすい時は使っていました。正確さより通じやすさをとったのです。

それに広義ではメインキャラクターとも取れるので、別に間違ってはいないとも思っていました。

そう思ってくると、私が言った主人公の定義は意味があるのかと言う事になりますが、実は私も「主人公は特殊で特別である。なぜなら主人公の為の物語になるからだ」と言うのは一般意見よりも尖った偏った意見なのかな? と思えてきてました。

しかし本の中で押井さんがヒーローの定義で「自分自身を変えていける奴」と言っていて、他にも町山さん宇多丸さんがネット動画で言ってたのが(映画、桐島部活辞めるってよで東出演じる)「宏樹が主人公だ」と言ってたのを聞いて「多くの知識人も主人公の定義を持っているし、私の感じている定義とおおよそ同じだろう」とあらためて思えたので、もう一度細かく定義して見よう思った次第です。

 

主人公を英語で検索するとhero(ヒーロー)、protagonist(プロタゴニスト)、main character(メインキャラクター)とlead character(リードキャラクター)といくつか出てきます。つまり日本語と英語で、意味が同じな言葉は無いのです。似てるけど違う意味合いの言葉です。

押井さんは、外人の脚本家が言っていたヒーローについての考えに反論したようです。

外人は「ヒーローは他人を変えていける奴」と言ったそうで、それで押井さんは「いや自分を変えていける奴だろ」と反論したようです。でも通じないでしょう。押井さんが言ってる事はヒーローでは無く、主人公だからです。

押井さんはその時外人の言っている「hero(ヒーロー)」を「主人公」と翻訳したと思います。しかしヒーローと主人公は別の物です。

(ちなみに、この外人の言ってた「映画ドライヴのヒーローは他人を変えていける奴」と言ってた事は、押井さんが言ってたように間違っています。ドライヴの主人公っぽい人は誰の内面も変えてませんからね。ただ物理的には親子を救ったとも取れ、そうなると死にゆく人生を変えたとも取れます。それを脚本家の外人は言いたかったのだと思います。だからまあ、両方一理あると言う事です)

ウルトラマンはヒーローですね。でも変わらないキャラクターです。でもヒーローです。だからヒーローは「自分を変えていける奴」ではない。そう考えると外人が言ってた「ヒーローは他人を変えていける奴」の方が近い気がします。

しかし「主人公は自分を変えていける奴」です。だから押井さんが言ってたのは主人公の事だと思います。

 

ネット動画で宇多丸さんと町山さん等が映画「桐島、部活辞めるってよ」の話をしていて、誰かが「(神木演じる)前田は主人公ではなく、(東出演じる)宏樹が主人公だ」と言ってました。

前田は変わらない奴です。始めから最後まで同じです。だから主人公では無い。

しかし宏樹は迷い悩み、そして最後何かに気が付き、前に進みそうな所で終わります。だから主人公だと言うのです。

これもそうで、目立ち進行役でも前田は主人公では無い。自分を変えていける奴が主人公なのです。言い方を変えれば、物語により成長している奴が主人公です。物語が主人公を成長させるのです。

 

この二人は同じ事を言っています。

主人公は自分を変えていける奴なのです。

変わらない奴は主人公では無い。

物語により変わる人物であるべきなのです。

でないと何の為の、誰の為の物語なのか? と言う事です。

 

 

なぜ人の主人公の解釈が大事なのか?

でも言葉だろ? 辞典に書いてあるのが正解だろ、と思う人もいますね。

辞典は「世間ではこういう解釈だろう」と思える事を人が書いてあるので、世間の意見が違うとなれば間違いなのです。

言葉は日々変わっていきます。「五月晴れ」は旧暦で梅雨時の晴れ間の事でした。しかし今は辞典に「梅雨時の晴れ間」と「五月の晴れ」と両方書いてあります。両方使うようになったので両方が正解になったのです。でも「五月」の晴れだけ言葉があるのは不自然ですね。元々は、梅雨の間のたまにある晴れ間なので、言葉にするほどの意味があったのです。しかし実際に今は両方使うので、両方辞典に乗っていてもあってるのです。

テレビで誰かが「言葉は日々変わっていくのだからそれでもいい。しかし言葉に意味がある時は変えてはいけない、意味が分からなくなるから」と言っていました。変えてはいけない言葉もあると言う事です。「的を射る」を「的を得る」と言う人がいますね。的を得ても意味が無い事ですし、何の事だか分かりません。なんで「的を得る」と間違える人が多くても「的を射るだよ」と正していくべきなのです。

では「主人公」はどうなのか? これは昔からハッキリした意味が無い物です。だから決めるべきだし、辞典が間違っていたら変えていくべきです。

そこで皆の意見が必要なのです。わたしが個人的に「主人公はこう言う意味であるべきだ」と言っても意味が無い。多くに人がそう思っている必要があるし、物語に詳しい人達が思っている解釈は大事なのです。

 

押井さん等が、たぶん主人公はただのメインキャラクターでは無いと思っている事が大事なのです。

それに一般人も二つの意味があると思っているのです。メインキャラクターと言う意味と、もう一つそれ以上の特別で特殊なものが主人公だと。それが私が前にこのブログで言った事です。

つまり一般人も知識人も主人公はただのメインキャラクターではないと「も」思っているのです。だから辞典にもそう書くべきなのです。

いや、せめて広義ではメインキャラクターだが、狭義では……と二つ書くべきですね。

 

ヒーローはすごい奴ですね。そして良い奴です。でも変わらなくてもいい人です。ウルトラマンもそうですし、北斗の拳も一巻では変わらないです。もし一巻で打ち切られていてもヒーローでしたよね。

メインキャラクターは言葉の通りです。主だって出てくればよく、皆が成長しなくてもいい。数人いてもいいようです。

リードキャラクターは物語を引っ張っていく人ですね。これはアシタカの様な人です。これも成長しなくてもいい。

プロタゴニストは正義でも悪でもよく、主だった人物で、大事な人物で、大体一人の事を指すのだそうです。しかしこれにも成長の要素は必要ではない。

 

だからこそ日本語の主人公と同じ意味の言葉は、英語には無いのです。

主人公は変わるのです。すなわち成長するのです。

変わる事は成長とは限りませんけど、この場合は成長しかない。ただ悪に染まっていく話だとしても、その人にとったら成長していると感じているものです。映画「ジョーカー」のアーサーです。

だからこそスターウォーズ、エピソード1から3のアナキンは主人公ではない。悪に染まるが成長してない。だからあの話は歴史にしか見えないのです。

 

主人公を成長させるのが物語です。成長させない物語には主人公はいないのです。

そこにはただメインキャラクターがいるだけです。

私が思ってるのではなく、多く人が思っているからこそ(頭の中でまとまっていなくとも)、

物語を通して変わっていく者、成長していく者こそを、正式な「主人公」と呼ぶべきだと思います。