「押井守の映画50年50本」の感想、続きです。今回で最後です。
最初に私のまとめを書いときます。
最後の映画「シェイプウォーター」で押井さんは98点だと言います。あと2点はどの映画でも永遠に埋まらない2点だそうです。
ここで1点ではなく2点にする所が押井守なのでしょう。
追いかけてもまだ2点あるぞと言うのです。先があるぞと言うのです。
どうにかこうにか、奇跡的に1点近づけてもまだ先があるのです。
永遠に追いつかないものを追っていく。それが押井守なのかもしれませんね。
162ページ 北野武監督はなぜギャグ映画を撮ったのかを考えるべき。
武監督はどんな映画を撮るのか選べるので、北野武と言う監督を論ずるのなら、あえて撮ったうけてないギャグ映画も無視してはいけない、と言います。
そもそも監督を論ずるのならですが、映画製作業の人とか評論家の人ならそうするべきですね。
人を語るのに、偏った情報だけで言うのは間違いですね。
だから手塚治虫さんを褒めるだけのテレビ番組とかは嫌いです。その人自体を語ってはいないからです。その人の功績を語ってるだけです。
日本人は褒める人はただ褒め、けなす人はけなすのみですね。だからいつまでたっても何についても本質を理解しないのでしょう。これは悪い習慣です。
社会や政治についてもそうなのですが、これは長くなるし、ここで言う事でもないので割愛します。
ただ、映画などを作る事に関しても、本質を理解しようとしなくては何も進歩は無いのです。
本質を理解して、良い所は真似て、悪い所は直す。それを繰り返して始めて時代と共に進歩して行けるのです。それが無いと個人個人がまた一から作る事になり、いつまでたっても優れた人や物が出て来なくなります。
そればかりか、時代と共に新たな才能がある人が出て来にくくなっています。例えば、社会が今ほど複雑になる前の昔だと、少し優れている若い人でも、大事な仕事に抜擢されたりしたからです。始めは未熟でもやってくうちに段々こなれていき、その中から優れた人が出て来る。さんまやビート武がそうです。アニメ監督などもそうだった事でしょう。
しかし今は時代が違います。こなれて来たからこそ、未熟な若い人にはチャンスはあまりない。優れている年寄りが大勢いるからです。その事が分かってないから、宮崎駿さんや明石家さんまさんの後釜は出てこないのでしょう。
昔はそうやって自分で世に出てきたと言っても、今は時代が違う。理解してない大人が多いですね。
まあ、武監督を論ずるにせよ、新たな宮崎駿が出てこないにせよ、皆の考えが足りないという事です。
出来る事、やるべき事はまだまだあると言う事です。
167ページ 映画には身幅がある。
監督にも役者にも予算にも身幅があると言います。
つまり大作にした方が良い作品と、してはいけない作品です。
ここでは「トレマーズ」の事を言っていますが、確かにこれを金をかけて大作したらつまらないか、もしくは同じにしかならないでしょう。つまり意味が無いと言う事です。
なるほどですね。金ををかければいいって物じゃない。分かりやすい極端な例では、テレビドラマ「勇者ヨシヒコ」なんかは金かけても意味ないですね。そんな物語もたまにはある。
ただ押井さんも、大作にした方が良い作品の方が多いとは言っていますけど。まあそうですね。
ここではなにげなく、監督と役者にも身幅があると言いますね。得意、不得意だけではなく、能力的に出来る出来ないもあります。無理はいけませんね。
得意でない、もしくは良く分かって無い物を、どうしてもやりたい時は、その事を理解して「どうすれば出来るか?」もしくは「どうすれば誤魔化せるか?」を考える事が大事です。
例えば、アニメでリアルな世界で何かを描こうとしたら、注意が必要です。良く分かって無いのにリアルにするから、逆に嘘っぽくなってる作品が多いですね。良く分かろうと頑張るのか、何か誤魔化すかすればいいと思います。これも極端な例では、それこそ「勇者ヨシヒコ」みたくしたり「メガゾーン23」や「地球へ」みたいな世界にしたり「マトリックス」にしたり、何かしら誤魔化しようはあります。
「いや、実世界でやるのが意味があるのだ」と言うのなら構わないですが、難しい事をしてる事を理解して頑張るしかないですね。
私は失敗する位なら誤魔化した方がまだましだと思いますけどね。
203ページ 映画は地雷原の山
「子豚のベイブが街に行くと途端に作り物感が出る」と言います。
そこから「映画は何でもやっていいように思えるけど、実は地雷原の山。その地雷を一つでも踏むと途端に嘘っぽくなる」と言います。
本当にそうですね。やっていけない事が山の様にある。
ただ、見てる人は出来上がった物からなので分かりやすいですが、作ってる人は想像を働かせないといけないので難しいですね。
ただ、何が地雷原か分かってない人が多いどころか、まるっきり考えてない人が多い気がします。なんとなくではなく、せめて一度は考えてみるべきですね。
ベイブは街に出ると嘘っぽかったですが、ランボーは2で街から戦場に帰ったら馬鹿っぽいと言う、1は何が良かったのかを忘れてはいけないという教訓ですね。
207ページ ベイブは章立てにして正解
ベイブでは、章で区切る事により絵本感が出て、ファンタジー感が出るのであってる、と言います。
下手にリアルにしないで、どこかで「うそですよ」と言ってしまった方が客が納得して見れると言う事だと思います。
客が「そんな馬鹿な」と思う不快なノイズが出る前に、言い訳を置いておく事が大事です。それですんなり安心して見てられるのです。監督を信じてみてられるのです。
前に言った様に宮崎駿さんは上手かったですね。紅の豚なんてブタですし。魔女の宅急便も魔女ですしね。はじめから「うそですよ」と言ってしまう。他の作品も時代が昔だったり未来だったりする事により、現代劇より不思議な事をしても納得しやすい。
私は昔からアメリカ映画が好きです。アメリカだと成立する映画が多いですね。私が日本人だからですかね? 異国だから「そんな事もあるのかも?」と思えるのです。「ボーンアイデンティティー」なんか、日本が舞台で日本人の役者がやってたら、見てられないと思いませんか? たとえ作りがまるっきり同じでもね。
逆にアメリカ人はアメリカ映画をどう思って見てるのでしょうね? 言える事は感覚は違いますね。アメリカ映画で、白塗りの女などのおかしな日本人が出てきてもかまわないのがアメリカ人ですね。あれは日本を知らないから成立するのです。国や人や宗教や常識により、どこが許せるかは変わってくる。少なくとも、よく知らない事はありになるのです。だから皆が知らない昔や未来や異世界にして誤魔化す方が、客は安心して見てられるのです。
あと「パルクフィクション」も章立てだと言います。そうですね。しかしこれはベイブとは違う意味でしょうね。
あれはあの内容でずっとだと飽きてきますからね。分かりやすい面白い所のみをピックアップして章にした方が面白くなる内容です。
「トワイライトゾーン」の様に短い話の方が良い物もあります。物語にはあった長さがあります。これは別の話をまとめたやつですが、シーンでやるとパルプフィクションになるので同じです。
前にも言いましたが、ミステリー作家ジェフリーディーヴァーは「長編だと悪役が勝つ等の客を裏切る行為など出来ない。しかし短編ならそれが許される」と言ってました。流石ですね。客は何が「裏切られた」と思うのかを理解しているという事です。
例えば友達の話を30分聞いて、内容もオチもなければ頭に来ます。しかし30秒ならオチの無い話も聞いてられる。そんなものです。長さも大事なのです。
これはつまらなくても良いと言う話ではなく、客を裏切るような衝撃作でも良いと言う事です。例えば登場人物が皆死ぬとかです。
これらはどれも「客の気持を裏切らない為には何が必要か?」と言う話です。
217ページ 映画の正体
リメイクなどの違う監督が同じ作品を撮ったのを見てみて考察する。他にも同じ監督のを何本か見て何をしたい監督なのか考察する。その様に考察しながら見ないと映画の正体なんて分からない、と言います。
220ページ 同じ映画
気になった同じ映画を何度も見てみると分かる事がある。逆に色々見ると分からなくなる事がある、と言います。
これは前に言った事と逆ですね。前は駄作でもなんでもとにかく見ろ、と言ってたのにね。
でも見方も考察の仕方も一つだけでは無くて、色々あるのだと言いたいのでしょう。
221ページ 映画は監督でしか語れない。
だから監督が何をしたいのか? 何を思って作ったのか? を考えろと言うのでしょう。
正確に言えば、映画の内容を作ったのは監督かどうかは分かりませんね。カメラマンだったり音響監督だったり原作者や脚本家だったり、はたまたスポンサーの意向だったりで決まってる内容がありますからね。どれが監督の考えかは分からない時があります。
だからこそ何本も見れば監督の考えが見えてくると言うのでしょう。
まあ、実際問題としたら、監督でしか語れないのはあってるかもしれません。それ以外の影響まで考えてたら、人生の時間が足りなくて答えが出てこないでしょう。特に沢山映画などを見て考える場合は時間が足りないし、そもそも外部からは内情は分からない。だから責任者で一番影響力がある監督の考えで見てみるしかないでしょうね。
この監督から映画の正体を探るというやり方は、監督業などの制作者側の見方ですね。それに評論家の見方です。こういう職業の人達には必要な見方でしょう。
しかし、素人はそこまで考える事もないですね。それでもやるのは、評論家みたく見るのが趣味な人だけでいいでしょう。
224ページ どんな監督も作ってしまう映画が、死生観が出て来る映画と、自己弁護の映画だ、と言います。
死生観の映画は、片足を死に突っ込んだ状態のような映画だそうです。
もう一つが、自分の人生を擁護する自己弁護の映画だそうです。
死生観は晩年に描きがちだそうで、自己弁護は自由に作れる位になるとやりがちだそうです。
どっちも自分の人生を振り返り、生きてきてやって来た事を擁護しながら「良い人生だった、死んでも天国に行けるかな?」なんて思いたくなった時に出て来るのでしょう。それが人なので,どうしてもそう言う映画を作りがちなのでしょうね。
まあ甘っちょろい感情ですが、自分にとって大事な身近な事を描くので、映画の内容としたら良いのが出来るのかもしれませんね。
それに人の弱さもろさ等を描くのが物語ですね。それがないと宗教物語になりますからね。だから人を描く人達自体に弱さがあるのは良い事です。弱さがあるから物語を描けるのです。
237ページ ボーンスプレマシー
この映画は、劇映画とドキュメントが上手い具合にミックスされた映画だと言います。
これは細かな映画の事ですが、私には前から気になっていた事です。ボーンシリーズは面白ですが、何が面白いのか分からなかったので、私には参考になりました。
考えてみれば、やってる内容は昔ながらの事なのです。なのになぜか面白い映画でした。
押井さんも「あらゆる映画に影響を与えた」「監督の顔が見えてこない不思議な映画」と言います。
一見して新しさがある映画ならともかく、この映画の様に一見新しさが無いのに面白く、今までと何かが違う映画も作れる可能性がある、と言う事ですね。
もうやりつくしたと諦めたり妥協したりしないで、可能性を探る事は必要なのだと思わせる映画でした。
ただ新たな可能性を探る事は、実際には難しいですけどね。
260ページ ウォッチメンとエンジェルウォーズ
ウォッチメンはアメリカの歴史だったのですね。この映画を見た時は、まだあまり考えないで映画を見てたので見落としてました。
ドクターマンハッタンですからね。マンハッタン計画ですね。核そのものですよね。
最後核の恐怖で東西の戦争がなくなる話なんて、歴史そのものですね。それに核で人々を殺して平和をもたらす物語です。これもアメリアそのものであり、それで「良いのか悪いのか?」を問う見事な物語になっています。
この最後は漫画版とも違い、映画版の脚本家が作ったようですね。上手く出来てます。
監督のザックスナイダーはどこまで分かっていたのか? は謎ですが、これを採用したのは彼なので分かってたのかもしれませんね。
この映画で監督の事を、押井さんは良くやった方だと言います。宇多丸さんの方は問題が多いと言いたいようです。どっちの意見も聞くと、なるほどと思います。確かに今一心に響かない物語でしたね。面白そうな内容なのに、何かが足りないのでしょう。でもよくやったと言われれば、ラストの作りなど、よくやった方かもしれないとも思えます。粗いけど、良い所もあったと言う事でしょうか?
エンジェルウォーズの事はここのブログで2019年10月12日に少し書きました。ザックが何をしてたのか誰か分かってあげないと可哀そうなので、よければ見てください。意外と面白い事をする監督ですよ。
275ページ ヒーローの定義
映画「ドライヴ」の主人公を、他人に影響を与えて変えていった人でありヒーローだ、と言う脚本家に、押井さんが反論したようです。
押井さんは「ドライヴの主人公は誰も変えて無い」と言います。その通りだと思います。
それに押井さんは「自分自身をまず変えていける人をヒーローだ」と言います。
これは解釈によりますかね? 英語で主人公はヒーローとも言いますし、違う呼び方もあります。私は主人公は成長して変わっていくべき人だと思います。じゃないと主人公では無いと思っています。ヒーローが主人公なら私も押井さんと同意見です。
しかし私が思うヒーローは主人公とは限らない。私にはウルトラマンやグリッドマンもヒーローです。でもあれは主人公では無い。正確に言えば「主人公とは別の名前を作り出して付けて分けるべきだ」と思っています。例えばモロボシダンが怪獣が出た時に天に祈ると、天から光が差し怪獣が解けていくとします。その光とウルトラマンは同じものです。人型をしてるから主人公っぽいですが、やってる事は天からの怪獣を消す光と同じなのです。
ウルトラマンは変わらない役ですね。だからウルトラマンがヒーローなら、自分自身を変えていけないヒーローです。だからこの考えだと私は、押井さんの考えとは違うと言う事です。ただこれは言葉の解釈の方の問題だと思っています。
言葉がはっきりしてないと論ずる事など出来ないですね。だから主人公やヒーローなどの言葉の再定義が必要だと思っています。
押井さんはドライヴの主人公の行動原理が見えないと言います。
私はドライヴを見た時に「あれ? パート2なのかな?」と思って見てましたが、違うようですね。つまりこの作品の前に、この主人公の性格付けや歴史を語った過去があるのかと思ったのです。
過去の作品が無いのなら、普通はこの主人公の昔を匂わせますね。軍隊にいたとか外国の殺し屋だったとかです。それが無いから不自然なのですね。急に何も見ぶれもなく隣人がウルトラマンに変身するような話ですね。
これは何なんでしょうね? どこかに過去の作品があるのかもしれません。監督が学生時代に自分のノートに書いた作品とか。他にも他の人の作品のキャラが生き延びてアメリカにたどり着いた、等の勝手な続きをやってる可能性もありますね。もしかしたらあの作品のあのキャラだと、分かる人には分かるのかもしれませんね。良く見ると何処かにヒントでもあるのでしょうかね?
なんにしろ、わざと過去を言わないと言う方法をとったのでしょう。ただこれが正解とは言えない作りでしたけどね。
281ページ 演出家の仕事は盛り上げる事ではない
一つの台詞でも表情でも構図でもいいからそれに向かって映画を作っていくのが監督の仕事だ、と昔押井さんは師匠に言われたのだそうです。なるほどですね。
ここでは「ゼロ・ダーク・サーティー」と言う映画の事で説明されてます。最後に主人公の女性が一人泣くシーンがそうだと言うのです。
ビンラディン暗殺に成功し、主役の女性が死体を確認するシーンで盛り上げない。ずっと引き絵で無表情でうなずくのみ。その後に最後大型ヘリで帰っていく時に、一人になりさめざめ泣く。このシーンの為に全ての事を用意してある。
実はこの映画私は見て無いのですが、聞いただけでも見事ですね。この説明で「演出家の仕事は盛り上げる事ではなく、一つの目標に向かい作っていく」と言うのが分かります。ためになりますね。
これは途中で盛り上げたら失敗ですからね。何をしたいのか? 何を見せたいのか? に向かい、全てを作っていく。結果その方が、見せたいものに集約していく心に残る良い作品になりますね。
302ページ 失敗から学べる事は多い
映画「ジェイソンボーン」は失敗だった、と言います。そうだと思います。
謎と緊張が無いからですかね? 「この位すごい奴ならどこにでも逃げていけるだろ」と思わせる作りだったと思います。トムクルーズが出て来る映画のようでしたね。
これこそ地雷を踏んだ映画でした。何が地雷なのかが分かってなかった。
どこにも逃げ場がない世界で、孤軍奮闘で、謎の大きな敵に向かう。その感じが無かったですね。当たり前な大事な事を見失った典型例でした。
309ページ 編集者のあとがき
「映画は語る事で価値を持つ」と押井さんは常々言ってるようです。
つまらない映画も語れば意味を持ちます。
面白かった映画は、語った時にもう一度価値を持ちます。
なら良い事だけではないですか。
なので皆さんも語ってみたらどうでしょうか?