号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

薔薇の名前

サンテグチュペリの「星の王子さま」の事を書きます。

それとウンベルトエーコの小説「薔薇の名前」を織り交ぜ、バラの名前について書きます。

 

長くなりますが、まずは前提条件です。

 

例えば、夫人が旦那に「昨日あなたが女の人と歩いてのを友達が見た」と言ったとします。

数秒止まってから「あ、そう」と言ったら怪しいですか?

でも普段から数秒考えてから言う人だと、これで普通になります。逆にそういう人がここだけ即答だと怪しくなります。

しかしどっちみち何が怪しいのかは謎のままです。

例えば、いつもは即答する旦那が数秒止まってから答えたが「どうにか誤魔化そう」と思ってるのか? 「妹と歩いてたのは一昨日だったような?」と考えているのか? は分からないと言う事です。

 

まとめると「人の行動で、いつもと違う所には何かある」と言う事と「何の意味があるのかまでは分からない」と言う事です。

 

例えば、作家が野球の阪神タイガースのファンだっとして、動物が出て来る物語を書くとする。

その頃阪神タイガースが不調で弱かったりすると、物語の中でわざと弱いトラを出したりする時もある事でしょう。しかしこの弱いトラも昔は強くて、最後はまた強くよみがえる、と言う話に持っていこうと思ったりもします。これは人情で、どうしても自分と重なる部分を描きたくなるし、描きやすいと言う事もあるのです。

でも、タイガースのファンだからではなく、たまたまトラが出て来る物語でまとまっただけで、書いたのかもしれない。例えば場所がインドの話で、強い動物を出す物語を書こうと思ったから、トラを出しただけかもしれない。

でもたまたまでもトラが出て来るので、物語がぶれない範囲で少しタイガース要素も入れてみようかな? なんて思うのも人ですね。

 

つまり、どこまでがどの理由で、どの割合で、物語上そうなっているのかは分からないと言う事です。

 

さて、ここまでを前提条件として読んでください。

 

星の王子さま」で気になった所が二つありました。

詳しく言うと、他と比べ異質に感じた所です。

 

一つはバオバブの木の所です。

ここだけどうも作者の意見そのままであって、物語から浮いてるよな? と思いました。物語のバランスがおかしくなっても、どうしても言いたい何かが起きたのだろうと思ってました。

バオバブの絵は「三つの木が小さな星を取り囲んで潰してしまいそう」と言う絵でしたね。本の中でも自分で言ってましたが、ここだけ妙に力が入った絵でした。

分からないのでネットで探しました。すぐ答えが出てきました。結構有名な話みたいですね。ネットで言うには「これは三国同盟の事だ」と言うのです。

サンテグジュペリはフランス人でしたね。そして「星の王子さま」は1943年にアメリカで出版されてます。つまりフランスがドイツに負けて、サンテグジュペリアメリカに亡命してた時に書かれたのが「星の王子さま」です。

だからドイツは敵なのですね。そしてその頃、ドイツ、イタリア、日本の三国同盟が結ばれ、枢軸国と言われてました。この本では、この敵側三つの事を「地球を覆い壊すバオバブの木」で表していたと言う事です。

ただ敵国と言うだけでは無くて、ファシストとかナチズムとか軍国主義の事も表していたのかと思います。

だから「バオバブの木は小さな時に、危ないと気が付いて抜かないいけない」と言うのでしょう。しかも「小さい時はバオバブとバラは区別が付きずらい」と言うのも、ファシスト等の集団は「小さな時は皆を引っ張る魅力的な者」に見える、と言う事でしょう。その時に良く見て判断して、大きくなると世界を滅ぼす元だと分かったら、その時に潰してしまわないといけなかった、と言う事だと思います。

 

そうなると「バオバブの木を小さなうちに食べてしまう羊が必要だ」と言う王子の言葉も、意味があると言う事になります。

羊とは何なのでしょう?

 

サンテグジュペリの両親はカトリックです。キリスト教では羊は良く出てきますね。身近な動物だったので、比喩としてよく使われたのでしょう。

羊には二つの意味があるようです。

元のユダヤ教の時、羊は生贄として使われてました。だから生贄の意味なのですが、キリストも羊に例えます。つまり自分を犠牲にしたキリストもまた羊だと言うのです。これは羊を生贄にささげている元のユダヤ教は、間違った行動はして無いと言うために、合わせたのかと私は思います。生贄は自己犠牲なので間違って無いと言いたいのでしょう。これがあってるとしたら、これは自分に都合がいいように現実を捻じ曲げたように思われますが、どうでしょうか?

もう一つの羊の意味は、羊飼いに付いて行く従順な生き物であり、人の役に立つ生き物だと言う事です。だから皆従順であれと、キリスト教の信者も「迷える小羊」で例えますよね。ちなみに相反するものとし、山羊がいます。山羊は羊と違い荒々しく従順でもないので悪魔なのです。悪魔のサタンの象は羊顔ですよね。

キリストも信者も羊で表します。これも意味は違うが、皆同じ仲間だと言いたいのでしょう。

では、星の王子様の羊は? フランスにいたサンテグジュペリの周りは、両親も他人もキリスト教徒ばかりだった事でしょう。つまり羊はキリスト教徒であると同時に、普通の市民の事です。

普通の市民が、将来大きくなり世界を滅ぼすファシストやナチを、小さなうちに滅ぼさないといけなかった、と言う事です。

 

でも羊はバラも食べてしまします。バラとは何なのでしょうか?

普通に考えれば、バラはサンテグジュペリの奥さんの事ですね。

少なくともサンテグチュペリは、奥さんの事を一番強く考えて書いていたと思います。

 

でもバラの前に、まずは基本の人からです。

飛行機乗りは誰なのか?

これはサンテグジュペリ自身ですね。彼は飛行機乗りです。

1939年にサハラ砂漠に落ちて、三日後カイロまで歩いて行って生き延びたそうです。この事が星の王子さまに使われています。

たぶんこの時死にかけて、走馬灯のように昔を思い出したのじゃないでしょうか?

そして子供の頃も幻覚みたく思い出される。その子供が星の王子さまでは無いでしょうか?

 つまり星の王子さまも、もう一人のサンテグチュペリです。子供の頃の彼です。

もっと正確に言えば子供の頃の気持ちを持った彼です。

だから子供の頃そのままでは無くて、今の事も混ざっています。子供の頃から大人にかけて経験した事を、子供の自分が見て回る話が「星の王子さま」ですね。

 

王子さまは色んな星の住人を見て回ります。

どの人も小さな星に住んでいます。小さな世界で生きてる人は、偏った人になると言う事なのでしょう。

そして子供の頃の自分の心も、小さな世界に住んでいたと言う事です。その理由もあり、王子さまは星を出るのです。知識を得る為、世界を知る為、それに加え嫁から逃げる為ですね。

 

始めに会うのが王さまです。小さな星に居続けた王子さまは、やがて王さまになるのです。こんな人にならない為にも、出て行かないといけなかった。

ネットで書いてあった事で、この王さまにはまだ他の理由もありましたね。

この王さまはヴィシー政権だと言うのです。ドイツに負けてドイツが作った新しいフランス政府がヴィシー政権です。だから概ねドイツの傀儡政権です。

だからこの王さまは、言っても出来る事しか言わないのですね。「何々をやれ」と言ってもドイツに「ダメだ」と言われたら出来ない。だから初めからダメだと言われない物を選んで言っている政権です。

この王さまは、出て行く王子さまに「大使に任命する」と言います。この王さまの言葉なんて何の意味もないな、と皆が思うシーンですね。フランスから逃げアメリカに亡命中のサンテグジュペリを、ヴィシー政権は大使に任命してます。この事を言っているのでしょう。ヴィシー政権は形だけの王さまだと揶揄しているのです。

 

王子さまがサンテグジュペリだとするとヘビは何なのか?

なぜヘビにかまれ死ぬのか? 王子は「死ぬように見えるけど違う」と言います。サンテグジュペリはこの後、「死ぬような事だ」と皆に言われる戦争に行きます。しかしその死ぬような事をしないとあの星には戻れない。あの懐かしい自分の子供の頃見てた景色がある所で、バラともう一度暮らしたかったのでしょう。だが実際は上手くはいかないものです。サンテグジュペリは戦争に行き、そこで命を落とす事になるのです。

 

その他の意味もあると思います。

ヘビは知識の象徴です。それにイヴをそそのかし善悪の智識の木の実を食べさすのも、ヘビですね。

それでアダムとイヴは善悪が分かり、裸だとも分かり葉っぱで隠すようになる。これは大人になると言う事ですね。そして大人になれば楽園から追放されるのです。「小さい頃は神様がいて毎日夢を届けてくれた」とユーミンも歌っています。子供の頃は大人に守られて何もしなくても楽に楽しく生きて行けるのです。しかし大人はそこから出て行かないといけない。この事が楽園追放じゃないかとも言われているそうです。

ヘビは子供を大人にするアイテムの象徴なのでしょう。(本ホモデウスの作者ハラリさんが言うのは、イヴと言う言葉は元々メスのヘビの意味で使われてたそうです。何か色々勘ぐってしまいますね)

大人のままだと、あの子供の頃の夢の中の小さな星には戻れない、と言う事です。体を無くし、心だけがもう一度あの星に戻る事が出来る、と言う事だと思います。実際に大人になれば、子供の要素何て心にしかないと言う事でもあります。

星の王子さまは星々をまわり知識を得て大人になってしまったのです。だから子供に戻らないといけなかった。ヘビは子供を大人に出来る。なら大人を子供にも出来る方法を知っているのじゃないのか? もはや子供は心にしかない。だから体を無くし心だけの存在になれた時、初めて子供の頃夢見た自分の星に帰れる。それをする為の方法を知ってるのは、出来るのは、知識の象徴ヘビしかいない筈だ。いやヘビが責任をもって戻すべきだ。

と、飛行機乗りの男は思った。サンテグジュペリも思った。目の前の現実にいる王子さまは、いなくならなければならない。なぜなら幻だから。しかしこの幻の王子さまは自分の子供の頃の心なのだ。

だから知識(ヘビ)を使って(つまり一時的にわざと)大人の要素は消し去り(一時的には殺したようにも見える)子供の頃に心が戻れば、いつでも王子さまに会える事が出来るのだと気が付いた。夜空を見上げ思えば、会えるのだと気が付いた。王子さまに戻れるのだと気が付いたのです。

 

そういう話なのかな? そういう話でもあるのでしょう。

 

この本で気になった事二つ目、バラについて。

バラはサンテグジュペリの妻を思って書いてありますね。

バラが妙に人間臭かったのが気になってました。バラの王子の対応が妙に生々しい。

たぶん作者の妻か彼女がこんな人で、ケンカしたりして家を出て行ったのだろうなあ、と思ってましたが、その通りでしたね。

妻、コンスエロは二回結婚しててサンテグジュペリで三回目。どうも親族からは嫌われてたようです。自由奔放で激しい性格だったようです。何度も別居していて、その時に愛人もいたとかなんとか。しかしサンテグジュペリも愛人がいたので似たもの同士です。

だからバラなのでしょう。棘があるのです。

そして羊が食べてしまうのです。先ほど私は羊は周りの一般人だと言いましたね。つまり親族にも嫌われていて、潰されてしまいそうな性格の持ち主だったのでしょう。

それを防ごうと頑張っているのが、王子さま事サンテグジュペリなのです。

サンテグジュペリは大使に選ばれるぐらいだから有名な作家でした。周りにはバラのような人もたくさん寄ってきた事でしょう。親族や周りの人たちに「なんでコンスエロなんだ? 他にもたくさんいるだろ?」と言われてたに違いが無いのです。

だから王子さまは「他に沢山バラがある。他の人にはどれも同じバラに見えるだろうけど、ぼくにはあのバラが特別なバラになった」と言う様な事を言うのでしょう。そして「その責任がある」とも言うのです。サンテグジュペリの妻への気持ちそのものですね。ケンカして別居ばかりして「なんで分かれないんだ?」と周りに言われてたに違いない夫婦の絆の話だったのです。

王子は「結局羊に食べられしまうのに棘を付けるバラが、なんで棘を付けるのかを考えるのがまじめな事じゃないと言うの?」と怒りますね。これもそうです。棘のある妻が何で棘があるような事を言うのか? なんでそうなってしまったのか? と考える事が馬鹿らしいと言うのか? と怒っているサンテグジュペリ自身なのです。これを聞けば、別居しても不倫しても結局別れられない間柄なのが分かりますよね?

 

ではやはりバラの名前は、コンスエロって事でいいのでしょうか?

いえいえ、この本の中でバラはどこまで行ってもバラなのです。それ以外の何者でもない。名前は無いのです。

 

話は風に乗り「薔薇の名前」まで飛んでいきます。

ウンベルトエーコの小説「薔薇の名前」の最後の詩は「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」です。

小説の中に出て来る少女を薔薇で表してまして、主人公はこの子の名を知らないまま終わるのでこのような詩になる訳です。

この詩の意味はずっと分からないようでしたが、作者がネタバレしたようです。ラテン語でバラはROSAです。そしてローマはROMAだそうで、ダジャレです。

元になるの詩が昔にあったようで、その詩は「時が過ぎてローマは昔とは変わってしまった。今は名前だけがローマと残るのみだ」と言う意味だそうです。この元の詩は、ローマが繁栄していた頃とは変わってしまったと嘆いている詩です。そのローマを似てる単語の薔薇に変えたのだそうです。

薔薇の名前」の話はローマカトリックがおかしくなった時代の話なので、それにかけているのでしょう。ローマカトリックも名前は残ってるが、中身は変わってしまったと。

それと薔薇の様な彼女の名前も知らない事と、重ねて言ってるのでしょうけど、薔薇の方では意味が変わりますね。ただ、今は薔薇と言う名と思い出が残ってるのみと、懐かしみ悲しんでいると言う意味になります。

ちなみにこれはただのダジャレですが、これにも意味があります。物語の中ではキリスト教に笑いは必要か? の問いが大事な要素になります。それを作者は「必要だ」と言っているのです。

 

この作者が面白いのは、ここにもう一つ意味が含まれてる様に見える所です。普遍論争です。

物語上でも普遍論争の事を言っています。これは当時からキリスト教の中でも言い争われてきた事のようです。

例えば「人」と言う種類が普遍かどうか? と言う事です(普遍論争は違う意味もごっちゃになっている様に思えますが、大きな所はこう言う事でしょう)。普遍があると言う意見の方は、人が決めたルールではなく、その上に絶対的で揺るがない「人」を表すもの(要素)があると言う事です。だから時代も人種も関係なく、男や女で子供であっても皆が「人」とはこういうものだと言う要素が決まっていると言う事です。ちなみに私は違うと思っています。

だから作者は象徴としてローマを出してきたのでしょう。元の詩が、ローマは中身はまるで変わってしまったが、名前だけはローマと残った、と言う意味です。だから普遍的なローマは存在しなくて、中身が変わってもローマはローマであると認識されると言う事です。

ただこれは都市の個別の名前であり、種類を表す言葉では無いので、普遍論争で争っている意味で言ったら間違っています。なのでローマはあくまで比喩の様なものです。このローマとバラを重ねる事で、種類であるバラの名もまた、普遍的では無いと言いたいのでしょう。

そもそも女性をバラで表している事こそが、バラと言う絶対的に普遍的な種類は無いと言っているようなものです。

これは逆説的にも考えられます。普遍的なローマは無いからこそ、中身が変わってしまってもローマの名は残る。ならバラも中身が変わっても、失ってしまっても、バラの名は残るのです。誰それの名前ではなく、バラだからこそ赤く咲いたまま、そのまま残るのです。

 

ウンベルトエーコサンテグジュペリ。イタリア人とフランス人ですね。だからこの二人はバラに名前を聞くなんて、野暮な事はしないのでしょう。

名もなきバラだからこそ、永遠になったのです。