号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

道半ば

アニメ映画「未来のミライ」感想です。ネタバレです。

 

岡田斗司夫さんて方がyoutubeでも動画を公開しています。

そこでこの映画の話をしてました。なるほどね、と参考にした事は言っとかないといけませんね。岡田さんが言った事は私では気が付かなかったのでね。

 

岡田さんが言うには、この話はくんちゃんが皆を救う話だと言う事です。

ひいじんさんはくんちゃんにあって「お父さん」と(間違えてだけど)言われることで自分も子供もが欲しいのだと気が付く、それで足が悪くて諦めてたかもしれない結婚をする。

お母さんは「弟と仲が良かった」と言うがたぶん違くて、弟と小さい頃遊びたかった気持ちがある。それを昔に戻ったくんちゃんと遊ぶことで気持ちが晴れる。

お父さんは子供の頃体が悪く、小学生になっても自転車に乗れなかったが、くんちゃんが4歳で乗れるようになった事により、自分が子供の頃出来なかった夢をかなえてくれて心が晴れる。

かってる犬が「くんちゃんが生まれて事により自分がちやほやされなくなった」とくんちゃんに言う。言う事により気持ちが晴れる。それに「もっと上手いドックフードをくれ」と言うメッセージをくんちゃんに伝えてもらう。

妹は「ひな祭りの人形を早くかたずけてくれないから、このままでは自分は嫁に行き遅れてしまう」と気にしてた事を、何とかしてもらう。

それに最後なぜ出てきた分からなかった少し大きくなったくんちゃんは、どこかに電車に乗ってこの町から出て行こうと(家出かな?)してた所を、かわりに小さなくんちゃんが乗って行ってしまったのでやらないで済んでしまった。

と言う事だそうです。

 

皆を救っていると見ると、確かに全ての事が納得するのでそうかもしれないなあ、と思えてきました。

特に最後の方に出て来る大きくなったくんちゃんが一番出てきた意味が分からなかったので、この見方なら納得できるな、と思いました。

それでも私は「くんちゃんが実際に皆を救った様に見える」事と「そう見える事により家族の繋がりを象徴的に表している」事の間かもな? と思っています。

妹のミライが助けに来る事から、助け合いだと言いたいのだと思えたからです。

今は妹を助けるだけだが、将来は逆に助けてもらうかもしれない事と、妹を助ける事が自分の成長などにもつながり結果自分も助けられている事を表すために、象徴的にミライが助けにくるのだと思います。

つまり「妹のミライが助けに来る」事が「未来が助けてくれる」と象徴的に言ってる様に見えたのです。そこから、くんちゃんが親達を助ける事も(象徴的に)世代を超えた助け合いになってる事を表しているのだと思えました。

最後に両親がお互いを「変わったな」と言う事からも、子供が出来た事により自分達が成長できた事を言っています。つまり親が子供を助けてるように見えて、子供が間接的に親を助けている事を、言いたかったのだと思います。

時代を超えて家族の繋がりがあり、それぞれが時代や世代を超えて助け合って繋がっている事を表しているのでしょう。

 

こう見ると結構良く出来てたように見えます。分かりずらいにもほどがありますけどね。

 

肝になる事を先に話してしまったので、もう少し楽な感想を話していきます。

 

この作品はあまり評判は良くなかったですね。しかし私には思ったより悪くはなかったです。ただどの位の人が、私みたくそこそこ良かったと思えるのだろうか? とは思いましたけどね。

 

くんちゃんの声優の人が若い女優、上白石さんを使っていて、くんちゃんには大人過ぎて声質が合って無いと感想で多かったですね。私も、あまりにも合ってないので初めは困惑しましたけどね。

それに、見る前はリアルな子供を描こうとしたのかな? と思ってました。しかし始まってすぐ降ってくる雪をジーっと見ますね。ここであれ? と思いました。

花鳥風月と言う言葉がありますね。自然の美しい風景の事ですね。有名な話で(本当かは知りませんけど)花鳥風月の順で人は感動したりするようになると言います。若い頃に花が美しいと分かり、年を取って最後に月が綺麗に見えるようになると言う話です。

雪をジーっとこれは何だろうと感動して見る。子供がしそうに思えますよね? でもしないと思います。感動した目では見ないでしょう。子供はただ見るのです。

これは何なのか? つまり大人が「子供とはこんなだろう」と思った子供であると言う事です。リアルな子供ではなく、大人から見て想像した子供であると言う事です。

そこで、くんちゃんのあの合ってない声は何なんだ? と言う事に繋がります。あれは映画「ベイビートーク」をやっているのでしょう。大人が想像した子供と言う訳です。

 

1989年のアメリカのコメディ映画「ベイビートーク」結構有名な作品ですが、これを知ってるかどうかが「未来のミライ」を納得するかの分岐点でしょうね。

赤ちゃんとかまだしゃべれない子に、あとからアフレコを足した様な作品です。しかも声がブルースウィルスです。日本語は所ジョージだそうです。ちなみにテレビ版で福沢アナウンサーがやってましたね。どの声も子供っぽくはない声です。つまりアフレコだとわざと分かる様にしている作品ですね。

これは何か? を日本の物で表すと「珍プレー好プレー」のみのもんたです。これも昔の人でないと分からないでしょうけど、知ってる人は良く分かりますよね? 実際のプロ野球の映像があり、もちろん遠くから撮ってるので何を話してるのかは聞こえない。それに勝手に後からみのもんたさんがそれらしい(しかし実際には言って無いと分かる誇張した)アフレコを入れている番組でした。

それを映画にしたようなのが「ベイビートーク」ですね(もちろんアメリカ製なので珍プレー好プレーは見てない人が作っただろうけど)。

 

で「未来のミライ」ですが、あれもアフレコなんですよ。くんちゃんはそう思っているだろうと、後から大人が勝手につけたアフレコが上白石なのです。

そしてこの言葉自体作ってるのが監督になる訳です。

つまり行動も言葉も子供自体ではなく、監督が想像した子供の行動であり、子供が思ってるだろうと付けた言葉なのです。

 

動かない人形があったとして、それを使い物語を作る。すると「トイストーリー」みたくなるでしょう。では犬とか猫とか動物なら? 例えば魚なら「ファインディングニモ」になるのでしょう。そして子供ならこの作品になるのです。

トイストーリーでは人が見てない時におもちゃが動きだす。見て無い時に動いた事を想像するのです。子供もそうです。見てない所で何があったのかを想像する。

子供が「犬になって走り回った」と言ったり「大きくなったミライにあった」等と言ったとします。そんな訳の分からに事、子供は言いますよね? それを実際にあった様に想像するのです。それがこの作品です。

見えてる所はそのままに。見てない所は想像する。だから想像で出来た所の子供の行動は嘘っぽいのです。

そしてコメントも想像でアフレコする。思ってるだろう事をアフレコする。それを上白石にする事により確信犯なのです。だとすれば子供の行動が嘘っぽい所も分かっててやった可能性がありますね。

「子供目線の話の様で、あくまで大人からの目線の話なのです」と言っている作品なのです。

 

さて、もっともっと楽な感想を言います。

 

ネットでのコメントで子供の行動がうざいと言う人がいました。私は見る前にこれを聞いて、だからこそリアルな子供を描いたのかな? と思ってましたが違いましたね。

うざさはましな方ですよね? 皆自分の子供の頃を忘れてしまったようですね。

見る前はもっとちぐはぐな作品かな? とも思ってましたが、結構良く出来てましたね。ずっと一緒にやってきた脚本の人を外したようですが、これならそれも分かります。これがやりたいのなら、監督脚本でいいのでしょう。

ただエンターテイメント性は足りなかったのは間違いないですね。単純に多くの人が面白くないと言った時点で失敗です。お金が稼げなければ、次が続かないですからね。

やりたい事から考えるとこの位の話であってる様に思えますが、商売ですからね。もっと単純に面白くする事も出来たでしょうし、そうするべきでしたね。例えそれでやりたい事から少しずれるとしてもです。それが大人ですからね。

この作品では、父と母がまだまだ不完全だと言う作りです。自分が大人になると分かりますが「親も不完全な人間で、子供が小さい時の年頃ではまだ未熟なんだ」と知ってますよね?

この監督も親になりこの作品を作ったようですが、まだ道半ばでしょう。

未来があると言う事は道半ばだと言う事です。

この監督が今足りないのはエンターテインメント性です。つまり昔の宮崎駿要素です。この人にとっての鬼門かもしれないジブリの呪いが、乗り越える壁だと思えるのですが、どうでしょうね?

 

2020年7月20日 追加

 

言い忘れてた細かな事を言っときます。

岡田さんがくんちゃん家はお金持ちだ、と言っていました。たぶん皆さんもそう思った事でしょう。

しかしたぶん細田監督はもっとずれてます。この家は普通だと言うのです。

俯瞰で街を見下ろすカットが何度も出てきますね。この時気になったのが「周りに家が妙に大きいな」と言う事です。

周りに家に比べたらくんちゃん家は小さいですね。だからこの家はお金持ちでは無いと言うのです。ずれてますよね?

一つはこの監督は地方出身だそうです。だから大きな家も感覚的に普通なのかもしれません。

それとのび太の家だって大きいですよね? 漫画やアニメは誇張がありますからね。ある程度はしょうがないですね。

しかしこの辺の「感覚のずれ」が作品に響いてくると思うのです。ここは何とかしてほしいですね。

ちなみにこの妙に大きな家に皆住んでいるのは、たぶん戦後の絵もあるので「戦後からここまで頑張ってきました。先人たちの努力が今に繋がり、皆がりっぱな家に住めるようになりました」と言う事では無いでしょうか?