号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

今敏's Adventures in Wonderland

Q1、さて、ここで問題です。アニメ「パーフェクトブルー」「千年女優」「東京ゴットファーザーズ」「妄想代理人」「パプリカ」に対し、私が足りないと思ったものは何でしょうか?

 

今敏監督のこれらの作品は前から不思議だな? と思ってました。

見る前には面白そうに見える。そして見てる途中も飽きずに見れる。見終わった後も「まあ面白かったよな」と思える。

しかし一年たつと何も覚えていない。

なので他の作品が出ると、確か前は面白かったはずだとだけ覚えていて、だから見る。そしてまたそこそこ面白かったと思う。

そしてまた、一年たつと何も覚えていない。

見えない電波で脳内を攻撃されてるのでしょうかね?

 

ただ妄想代理人だけは途中飽きました。この作品も90分くらいにしてくれれば面白いだけで終わった気もします。この監督の手法には長さの限界があるのだと思います。

 

A1、答え、主人公です。

 

千年女優」「東京ゴットファーザーズ」「妄想代理人」の三つは主人公不在だと思ってくれる人も、結構いると思います。

パーフェクトブルー」の主人公みたいな女の人は、言うなれば「犯罪事件の再現シーン」の中の被害者の役です。主人公ではない。

そう見ると、監督最後の長編作品「パプリカ」は面白いですね。千葉敦子は少し主人公に近づいています。これは監督が丸くなったのでは無いでしょうか? 少しはこう言う普通の主人公ぽさも良いのでは無いのか? と思ってきたのでは無いでしょうか? だからこそ次の作品を見て見たかったですね。残念ですね。

パプリカは主人公では無いですね。これはガンダムウルトラマンです。他人を解放する為の役と、自分の中にあるものの解放と、だからこその力の象徴です。

狐顔の千葉敦子はどうでしょう? これはハンバーグ定食の横についてくる小さなエビフライです。ちなみに刑事さんは少しついてくるナポリタンです。どっちもこのまま大きくすればエビフライ定食やナポリタンと言うメインになれるのだが、まだおまけでしかないのです。

普通はこの他に少年か少女の主人公がいて、その横でサポートするお姉さんが千葉さんですね。ちょっとの魅力と最後の成長を見せる名脇役です。そしてその普通いる主人公がハンバーグです。この作品ではハンガーグがいないから、その横にあるエビフライがメインな気がするだけです。

やってる事としたら刑事さんも主人公よりな作りです。このナポリタンのカロリーをエビフライに使い、大きなエビフライになればメインになれた。つまり千葉が主人公になれた筈です。それを二つに分けてるのだから、どうしてもよくある主人公にはしたくなかったのかもしれませんね。

 

この作品らは主人公がいないから印象が薄いのでしょう。

だから覚えてない。核となる者がいると、それに沿って物語も覚えているものです。

昔聞いた事です。何かの単語を覚える時のやり方の一つで、例えば「机」「ハチ」「頭」と関係ない物を覚えようとする。関係が無いので覚えにくいのだが、例えば「机からハチが飛び出してきて頭に止まった」と関連して物語を作ると覚えられる。何か関連するものがあれば覚えられるのです。

だから主人公が一人いると、全ては主人公と関係がある物語になるので、覚えやすいのです。それがいないので覚えにくいのでしょう。

ちなみに、主人公でなくてもアイテムでもいいです。ラピュタラピュタを追い探し見付け壊す物語なので、それに沿って物語が覚えやすいのです。

 

ではなんで今監督は主人公不在ぎみの物語を描くのか? ですが、分かりませんね。

ただいくつか仮定は出来るので、それを書きます。

ただ好きだから、と言うのがまずきますね。この少し俯瞰気味で世界を描く物語が好きなんだろうなあ、とは思います。アキラの大友さんが好きだそうなので、その影響もあるのでしょう。

しかしこの主人公がいない事による効果として、同化しにくいと言うのがあります。ジブリの高畑さんがやりたかったような「同化させると感動できるが、何も考えなくなるのでそれを防ぐ」と言うのが成功してますね。

それにガンダムの富野さんは、アニメに留まらせない様に最後客を遠ざけますね。これも今監督作品は成功している。なぜなら一年たつと内容が覚えてないからです。

しかも「面白くない訳ではない」所が良いのです。それなりに面白く、しかし同化させず、しかも留まらせない。まさに高畑さんや富野さんがやりたかった事が成功してる様に見えるのです。面白いですね。

ただ、これらの効果を狙ったようには見えないですね。同化はさせないで考えさせようとしてるようには見えない。それに、留まらせないのを狙った様にも見えないのです。やりたい事をやったら、たまたま結果こうなったように見えるのですが、どうでしょうね?

 

妄想代理人から強く描かれるのが、現実と虚構の境界線がなくなっていく事です。

(ちょっとこのコメントの出所がはっきりしないので、間違ってたらごめんなさい)「妄想代理人のオープニング、面白いけど結局意味は何なんだ?」と言う意見に対し、今監督は「なんでも意味があるわけでは無い」と言うような事を行ったようです。お金の問題で、動かさないでもいい絵を作る為にああなったようです。

これらの事から今監督は、どうも「世の中なんてはっきりした意味なんてない事が多い」と思ってたふしがあります。

現実ではそうなのですが、物語は違うでしょう。アニメはもっと違うでしょう。

アニメに偶然は無いですね。全てに誰かの思惑が加わっている。髪が風になびく時、リアルならたまたま風が吹いただけでしょう。実写映像なら風には意味があるが、そのなびき方の細かな所は偶然です。しかしアニメは違う。髪の毛一本一本まで描いた人の思惑そのままになるのです。

しかし、全てが上手く行きすぎていると嘘っぽくなります。だからリアルさを出すために意味が無い事を少し入れるのもいいかもしれません。でも偶然が無い世界がアニメなのだから、アニメを作ってる限りにおいて、基本は何かしら意味がある事を描くべきですね。これも量の問題です。意味が無い事を入れるにしても、ほどほどにしておくべきと言う事です。

ちなみに細かなものにも意味がある方が納得できる物語になります。見ると全てに意味があるのだから悩むことが無い。意外にこの方が見やすくなるのです。そしてそれが優れているのが宮崎駿さんです。だからこの人の作品には、細かないちゃもんが少ないですね。「あれは何なんだ?」とか「あれはおかしい。整合性が取れてない」なんて事を言われるのが少ないのが駿さんです。だからこそ普通は細かな所も意味があるのを目指すべきです。

 

Q2、さて、また問題です。不思議の国は、アリスの為の世界です。ではパプリカの世界は誰の為の世界なのでしょう?

 

さて妄想代理人ですが、これは意味がはっきりしない物が多すぎましたね。これで「世界ははっきりした物だけでは無い。その中で出来る事をやるべきだ」と言うメッセージとも取れなくもないのですが、やり過ぎですね。面白さより困惑が多かった物語でした。

で、パプリカの方なのですが、これは「夢を操作する装置」を出す事により、そのおかしな作りの所を納得させられる話になっています。夢に出て来るのは何かしら理由があるのですが、それに意味が通ってるとは限られない。いや、意味は通ってない方が多いですかね。

夢で小さなドアも窓もない部屋にいたとします。そこにろうそくが一本あったとします。小さな出口のない部屋は、不安とか逃げれないとかを暗示させてるのかもしれない。しかしろうそくは、ただ暗い部屋で明かりが無いと見えないだろうからと言う理由だけで、あるのかもしれないのです。

逆にろうそくの方に意味があるのかもしれない。身内の消えそうな命とかを表してるのかもしれない。そして出口のない部屋は、ろうそくの存在を効果的に見せるだけの理由で、あるのかもしれないのです。

パプリカ内で言うと、パプリカがオートバイで走っていて、途中から乗ってるのが車に変わる。オートバイで走ってると周りに車はいるだろうからと、車が出てくる。急いでいてオートバイだとスピードが出なそうだから、車の方が良いだろうと思う。だからその車に乗ってる事にする。こんな風に夢の中では過ぎていくので、ここは良く出来てますね。そして整合性は取れてない。物語としてもあのシーンは何を表しているのか? と思った所で、たぶん意味なんか無いのでしょう。良くある夢のシーンをリアルに描いただけなのです。

この理由はあるけど意味はない事。監督はその事を描くのが好きな人なのでしょう。そしてパプリカはそれをやってもおかしくない世界を作りあげた(原作があったとしても)。なので上手く出来てるのですね。まさに今監督の集大成ですが、だから次がどうなるか見たかったですね。

 

パプリカは上手く理由付けしてましたが、その前の作品ではあまりありませんでした。

この現実と虚構のあいまいな世界は何なんだろうと思ってました。

ここも「たぶん」になるのですが、たぶん製作者としての見方が普通と違うのですね。

パプリカで映画が出てきました。そして映画館も出てきましたね。ご丁寧に最後映画館に刑事が行く所で終わります。これは監督が見てるのは映画自体と言うよりも、映画館という俯瞰で物事を見ていると言う事では無いでしょうか?

ここで昔から私が抱いてたもう一つの疑問に重なるのです。不条理で整合性が取れてない世界。「不思議の国のアリス」と世界がつながるのです。

例えば、紙芝居です。紙芝居をしているおじさんはどこを見ているのか? 子供たちを見てはいないのか?

例えば、絵本を読み聞かせる親です。親は絵本を見てるのでしょうか? 子供の反応を見てはいないでしょうか?

例えば、椅子に座った人達を前に、物語を朗読して聞かせてるようなものです。その物語自体を読み手自身が作ったとしても、物語に集中はしないで客に集中する事でしょう。

この監督は感覚的に俯瞰で見てはいなかったのか? 物語自体ではなく、それを見ている客ありきの俯瞰でとらえてはいなかったのか?

でもそうなると、物語自体の興味が薄れていくものです。紙芝居を聞いている子供に意識が行けば、紙芝居自体なんて意味が薄く感じてくるでしょう。あくまで「自分から客に投げかける感情や感動を伝える為の間にある装置」としか、見えなくはならないでしょうか? 

今監督の物語を見てるとそう感じてしまう。どうも物語自体の集中が足りなく感じてしまいます。しかし客に意識が向かってるとしてら、それも間違いでは無いのでしょう。

ちなみに、物語自体に集中している製作者であっても、客は意識します。これも量の問題で、どの程度どこに意識が行っているかの問題です。今監督は普通より多く、俯瞰で物語を見ているような気がしたのです。

そして不思議の国のアリスです。これもアリスの為に書かれた本ですね。だから物語なんてどうでもよかったのです。整合性なんてどうでもいい。ただアリスが喜んでくれる物を作りたかっただけなのでしょう。

 

A2、答え、主人公です。

A2、答え、客です。

A2、答え、今敏です。

お好きなのをどうぞ。

 

さてアリスは主人公です。今監督作品には主人公はいません。

アリスは主人公だが、客なのです。では今監督の主人公はもしかしたら客なのかもしれませんね。

物語とは主人公の為のお話です。なら客が主人公なら客の為の物語だったと言う事になります。

とまあ、綺麗事な終わり方なのですが、どうも見た感じでは監督が好きな物を作っていたように感じるのです。監督自体も「どこかにいる自分と同じ感覚の人に向かい描いている」と言ってましたね。

じゃあ、客も主人公も今監督の分身だと言う事ですかね?

最後までつかみ所がない不思議な人でしたね。