号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

物語 = 主人公

主人公とは何か? と言う話です。

 

国語辞典によると、主役とは主人公の役だそうです。

そして主人公は中心人物だそうです。

 

そうなると私が前に言った事は間違いと言う事になります。

アムロレイは主役では無いと言った事です。

アムロは中心人物なので、主役であり主人公になります。

しかしこれは国語辞典の方が間違いだ、と言う事を言っていきます。

 

ガンダムは主人公では無いですね。これは皆そう思う筈です。

ではドラえもんは? これは中心人物ですね。なら主人公でしょうか? これは意見が分かれると思います。「のび太が主人公だ」と言う人と「ドラえもんが主人公だ」と言う人と「二人が主人公だ」と言う人にです。

ではドラえもんが言葉を発しなければどうでしょうか? のび太ドラえもんに助けを求めると、一言も言わず未来の道具を出すロボットだとしたら、ドラえもんは主人公には見えない筈です。

ガンダムはどうでしょうか? もしナイトライダーみたくしゃべったとしたら、主人公でしょうか? これも主人公には見えないと思います。

ではしゃべるガンダムドラえもんは何が違うのでしょうか?

やはりドラえもんは中心人物だが主人公では無いのです。

 

日本昔話があります。有名なナレーターの人がいますね。このナレーターはキャラクターはいませんね。

でももしいたらどうでしょうか? 神様の役でナレーターがいて、同じようにナレーションをする。物語が桃太郎だとして、同じように物語も進むが、物語の人達には神様は見えない。しかし所々後ろに神様が映って、たまに状況説明をする。最後桃太郎が終わると、神様が感想を言って去って行って終わる。

だとしたらこの神様は中心人物でしょ? でも主人公だとは思わない筈です。あくまで桃太郎が主人公です。

 

つまり説明役や進行役もいる。そしてガンダムドラえもん等のアイテムもある。

しかしそれらが中心人物であっても主人公では無いのです。

 

では、主人公とは何か?

物語とは、その人の為の物語になっているのです。「その人」の事です。

つまり物語と主人公は等価であり、形が違うが同じものだと言う事です。

主人公を、楽しませたり悲しませたり努力させたり成長させたりする為の物が、物語なのです。

主役級が数人いたりする物語では、その時の主役がいて、その時の主役の為にその時の物語があるのです。

 

と言う事は、主人公がいない物語もあると言う事です。

誰の為でもない物語には、主人公はいないのです。

例えばノンフィクションで東京大空襲でも描いたとします。何人か、もしくは何十人かの人の生きざま死にざまを描く事になるでしょう。そこで生き残る人が主人公になる訳では無いですね。泣いたり叫んだりしてどう逃げたかもわからないが、運よく逃げれた人もいた筈です。そこには絵になるシーンもなく、面白いエピソードも無い人がいた筈です。ドーンと大きな音を聞いて気を失い、気が付いたら数日たっていた子供もいたかもしれません。そういう風に生き残った人が数人いたとして、その人達を主人公だとは思わないでしょう。しかしそれでも物語にはなります。人が見れる物語にはなるのです。

 

主人公、その人の為に物語はある。

だとしたら主人公がいる物語で、もし主人公がいなくなれば、物語が成立しなくならなければ、ならないのです。

つまりその人が死んだりしていなくなった時、物語が進まなくなるか、他の人が主人公になれば物語の内容やメッセージ性が大きく変わるとしたら、その死んだ人が主人公だったと言う事です。

ガンダムオリジンがありましたね。シャアが主人公の物語です。確かアニメはアムロが出てきた位の時に終わってしまいます。しかしあのままシャアを軸に最後まで描く事もできる筈です。そしてアムロがあまり出て来なくなる筈ですが、それでもかまわなくありませんか? いなくても良くはありませんか?

もしアムロが途中死んだとしても、カイシデンとか他の誰かがニュータイプとして覚醒して強くなれば、それで構わなくはないですか? 強ければアムロでなくても主人公として成り立つとは思いませんか?

「シャアがいないとガンダムじゃないよな」と思う人は多そうですが「アムロがいないとガンダムじゃないよな」と思う人があまりいないと思います。つまりいなくてもいい人なのです。だから主人公では無いのです。

 

ナウシカはどうでしょう? 実はナウシカがいなくて、クシャナが主人公の物語を作ったとしてもそれなりに面白いでしょう。宮崎駿さんが作れば面白く見れる物にはなる筈です。

しかしナウシカの物語を知ってる人が、クシャナの物語を見たとしてら、どっちがいいと思うのか? 「やはりナウシカが主人公の方が面白い」と多くの人が思うはずです。替えのきかない役、それがナウシカであり、これが主人公なのです。

 

碇シンジはどうでしょう? シンジがいなくてアスカが主人公の物語を作ったとしても面白そうですね。シンジが主人公より人気が出るかもしれませんね。しかしコンセプトは変わりますね。物語の方向性や言いたい事が変わってきます。シンジが主人公の物語として伝わる事を庵野さんは言いたかったのだろうから、シンジが主人公で替わりが効かないのです。

 

ただこれも量の問題です。質の問題では無いですね。

つまり少し主人公ぎみなキャラもいると言う事です。例えば準主役のようなキャラです。主役の為に物語があるとしても、準主役の為にも少し物語があったりします。だからあいまいな時もあります。

もののけ姫のアシタカは主人公でしょうか? 実は少し主人公っぽい所もあるのですね。アシタカの為の物語の所もある気がします。しかし私はアシタカは進行役であり、見てる人の案内役でしかないと思っています。この辺があいまいなのは、量の問題だからです。少し主人公っぽい要素がある進行役もいるのでしょう。

ではアシタカはなぜ主人公では無いのか? それは苦悩しないからです。悩んではいるのでしょうが、淡々とこなしますね。例えば学校物語でテストがあるとします。それに苦悩したり、もしくは簡単に高得点を取ったりするとします。そうすればこのテストは、このキャラがどういう人かを表すために出てきたアイテムだと言う事になります。しかし苦悩しないで淡々とテストをするだけだとしたら、このテストはこのキャラの為に出て来たのでは無いと言う事です。他に何かの意味があるのでしょう。アシタカは苦悩しないので、出て来る問題もアシタカの為にあるのではなく、アシタカは問題のある世界の案内役でしかないのです。

 

主人公とは中心人物ではないのです。

物語と一体化している者、それが主人公です。

主人公を中心に世界が回ってるのではなく、世界が主人公と同化して回ってるのです。

物語と切っては切れない存在が主人公なのです。

 

主人公と世界が重なってる物を見せられている、と思うと少し不気味ですね。普通では無いですね。

でも普通を見たければ窓を開けて外を見てればいい。通りに立って歩いている人を見てればいいのです。そこには世界とは繋がりのない人がいます。自分にも他人にも意味が無い映像があります。それがリアルです。

リアルはつまらないのです。だから映画などのリアルじゃない物を、わざわざお金を出して見に行くのです。

これもジレンマです。ウソが過ぎると馬鹿らしく見てられない。しかしリアルすぎるとつまらないのです。その間を目指すのが物語です。

リアルに見える意味がある虚構、それが物語であり、それが主人公なのです。