号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

ゼロ時間へ。そして……

アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(以後、あの花)「心が叫びたがってるんだ。」(以後、ここさけ)「空の青さを知る人よ」(以後、空青)

この三つの原作が(ユニット名で)「超平和バスターズ」ですね。

「ここさけ」と「空青」を見て、何か引っかかるな? と思ってた事が分かってきたので、書いていきます。

三つともに共通するのが「ゼロに向かう物語」だったと言う話です。

 

ちなみに「ここさけ」と「空青」は見たけど「あの花は」実写ドラマ版の三分の二くらいと、劇場版を見ただけで話すのでご了承ください。

 

アガサクリスティーのミステリー小説「ゼロ時間へ」は面白い挑戦をしてましたね。

ミステリーは普通は「殺人事件が起き、そこから物語が始まる」が、本当は「殺人事件の前に色々あり、それが殺人事件と言うゼロ時間に収束されて行く」ものだと言っています。

この言ってる事は面白いのですが、今一この要素がうまく機能してたようには(どうしても必要だったようには)思えないでした。

これは昔の小説なので、今はもっとこなれたゼロ時間に向かう話もあると言う事で、大した事が無いように思えただけかもしれませんけどね。

 

ある時、数十種類のものの売り上げの順位の折れ線グラフで、ある時点で順位をつけると、そこから上に行くのと下に行くのがあり、真ん中位の数種類をピックアップして見ると、クモを散らすような動きになるのを見てました。

しかし面白いのは、ある地点で順位をつけて、その過去を折れ線グラフで見てる時です。

例えば20種類ぐらいあったとして、その中位の5種類を残し折れ線グラフにすると、過去から現代へ、上からや下から各々が段々中位に集まり、最後は綺麗に真ん中の順位で並ぶわけです。

言ってみれば当たり前の事なのですが、これを見た時「ゼロ時間へ」とはまさにこの事だな、と思った記憶があります。

過去の地点から見ると、それらが係わってくる事ももちろん分からない訳ですが、それが時が経って段々中心にあつまり最後綺麗に並ぶと、ちょっと不思議な気持ちになるものです。

ミステリーとしたら、昔のある地点なら予測も出来ない人達が、何の因果か集まり係わり、そして結果最後は誰かが死ぬ。それを予測出来ない様にパズル的に表せれば、確かに面白くはなりそうです。

 

ミステリーでなくても、最後どうなるか分かってる物語と言うのはありますね。歴史ものですね。

歴史ものに対する外人の感想で「最後どうなるか分かってるのに、何が面白いのだろう?」と言うのがありました。面白いから沢山歴史ものが作られている訳です。つまり上手くやれば、最後が分かっても面白く出来ると言う事です。

しかしだからと言って、最後が分かっている方が面白い訳では無いですね。もし分からないで済むなら、その方が面白くはなるでしょう。

例えばスターウォーズのエピソード1,2,3ですね。アナキンがダースベーダーになる話ですが、その事を知らずにエピソード1から6まで見たら、もっと大きな衝撃を得る物語になる事でしょう。

 

最近「何々ゼロ」とか言う題名の作品が多い気がします。流行りですね。

これは「何々2」とか「何々Z」とか「何々FINAL」は飽きられてきたので、じゃあ前日譚にするか、と言う事ですね。

「何々2」とかと一緒ですが、もう名が売れてるものです。ある程度のファンもいるので最低限は売れますね。だからやるのでしょうが、しかし続き物と違う所は「最後どうなるか分かっている」事ですね。

私としても、前どうなってたか気になったりもするので、前日譚を見るのは嫌いでは無いです。しかしどうしても最後が薄くなりがちですね。どこに落ち着くのかが分かってしまってるので、驚きが無いからです。

これは「最後に驚きや感動が、得にくい作品になりがち」と言う事です。ここが大事ですね。つまり「最後」が大事なのです。

 

ハラリさんの本「ホモデウス」で面白い実験の事が書いてありましたね。

【一】、人が冷たい水(14度)に手を1分入れる。その後分からない様に少し暖かい水を足し、少し緩くした水(15度)に手を30秒入れ続ける。

【二】、それとは別に、冷たい水(14度)に1分手を入れるだけをする。

順番に差が無いように【一】をやってから【二】をにするグループと、【二】から【一】をやるグループもある。

そしてその7分後【一】と【二】どっちをもう一度やりたいかを聞くと、80%の人が【一】を選ぶのだそうです。

14度の冷たい水に手を入れるのは不快です。【一】も【二】もその時間は変わらない。しかし【一】はその後にもう少しましな温度の水、と言っても15度のやっぱり不快な冷たさの水に30秒多く手を入れている。

しかし多くの人は【一】の方がましだったと記憶してるのです。つまり最後の記憶が後に多く残ってると言う事です。最後の記憶がどれだけ大事かが分かる実験です。

さて物語です。物語も最後の印象が大事だとは、経験上皆思って入るでしょう。

しかしこの実験から言うと、皆が普通思ってるよりずっと最後が大事だと分かるのでは無いでしょうか? 物語は「最後」が大事なのです。

 

「何々ゼロ」等の前日譚は否定はしませんけど、どうしても未来をするよりは一歩劣るものになりがちです。

それは最後が分かってるから今一盛り上がりに欠けるのでしょう。

正確に言うと、最後が分かっている事と言うよりも、そこから発生する盛り上がりが欠けやすい事が大事だと言う事です。

それとは別に、物語の最後、つまり終わらせ方は大事だと言う事でもあります。「何々2」等の未来をやったとしても、最後がコケたら皆コケたと思うものです。

 

さてアニメ映画「あの花」「ここさけ」「空青」を見た時に感じた、何かが引っかかった事について書きます。

さっきも言った様に「あの花」は実写版を見ました。だからたまたまかな? とも思ったのですが、どうもめんまの母が、いやめんまの母だけがリアルに感じたのです。しかし正確言うとリアルなのは母事態ではなく、母を見てる側からの映像がリアルに感じたのです。それに加え父の存在感の無さがひっかかります。もし他の大人や子供のキャラもリアルさが出てたのなら、そういう作りなのでしょうが、どうも母だけにリアルさが感じられたのが不思議でした。

実写だったので演技が上手いのかな? なんて思ってたのですが「ここさけ」に出て来る母を見て「たまたまでは無かったな」と感じました。ここも母だけがリアルなのです。

さっきも言った様に母事態がリアルではない。つまり作り手が、書き手が母ならもっと他の母の内面を描いたでしょう。そうではなく、他人が見てる時の母の感じとして、リアルだと思ったのです。なんとなくこの描き方に私は「作者は女の人で、その人から見た母象が投影されてるな」と思いました。そして父象がいい加減なのも気になってまして、これも何かあるのかな? と思ってました。

これは原作は「超平和バスターズ」と言う三人のユニットになるのでしょう。しかし脚本を書いた岡田さんが女性だったので、この人の影響だなと思いました。

「ここさけ」の母が印象が悪いですね。ネットで感想を見ても母の悪口が多いです。もちろん父の悪口も多いですけど。それで面白いなと言う意見がありまして、それは「この問題のある母を主人公は嫌ってないし恨んでない」と言う事です。なるほどと思いました。

つまり不完全で問題もあり自分の問題に精一杯な、ただの一人の人間なのだと認識していると言う事です。問題もあって時に「何だこいつ」と思う事もあるけど、別に嫌ってもないし恨んでもない。そのリアルな母象が見えたのです。そしてこの見方が女の人っぽかったのです。男が書くともうちょっと刺々しさがなくなります。それはリアルな母と言う生き物が、息子には刺々しさが少ないと言う事です。少なくとも娘に対してよりはね。

ちなみにこれは父でも同じです。いや父の方が分かりやすいですね。父は息子にはきつく、娘にはデレデレする生き物ですからね。

 

物語には作り手の事が影響しますね。当たり前ですね。

だから脚本家かはもちろん、もしかしてらその他の二人もなのか? この人たちの影響が出て来る訳です。

そして母がリアルなのです。そして父は薄いのです。これはたぶん岡田さんの影響だろうけど、それが強く出てるように感じます。「あの花」も「ここさけ」も。「空青」なんて父も母も死んで出て来なくなってますしね。もういっそ消してしまえと言う事でしょうかね?

これで何を言いたいかと言うと、知っている人間は上手く書ける、知らない人間はどう書いたら分からない、のだろうけど、そろそろ知らない人間をリアルに描く事を目指すべきなのでは無いでしょうか? 何度も言いますが、私なら出来ると言う事では無いのですが、三作目「空青」位になると、見ててそれが強く思えてくるようになります。その辺の弱点が見えてくるのです。

 

どうもこの三作品似た所があるのです。

父と母の事はもう言いましたが、他にも子供がいい子達ばかりですね。これはなぜでしょうか? ただこの辺は物作りの技法かも知れないので分かりません。「けもフレ」みたくいい子ばかりな物語を書こうと言うコンセプトかも知れませんからね。

それに人間味が無い菩薩の様な人が現れます。子供らを救う地蔵菩薩の化身みたいな人が現れます。この人間味が無いのが不気味に見えるのですが、どうでしょうか? ただこの位の人が現れないと、人なんて救えないと言う事かもしれません。そんな普通に人が救えるなら苦労しないと言う事なのかもしれません。

言うなればこれは「ウルトラマン」ですね。この三作品は「ウルトラマン」に人が救われる話なのかもしれません。

「ここさけ」は少年拓実です。「空青」は姉と学生のしんのですね。そして一瞬分かりにくいのですが「あの花」はめんまです。この子らが人を超えた愛(アガペー)で主人公を救う話なのです。

つまり三作品、実は似ていると言う事ですが、それではきつくなって来たのでは無いのか? と思うのです。「あの花」はめんまと言う子供の幽霊なので、リアルさが無い人を超えた愛で主人公達を救っても、おかしく思わないのです。

しかしその後の二作品では、普通の人なのに菩薩みたいで、人間味が無さ過ぎて不気味に見えてきてしまう。

質が同じで種が違う物では、もう無理がある気がするのです。その向こうを目指すべきかと思うのです。

 

そしてこの三作品似た事が、他の事にも引っかかる訳です。

どうも「ここさけ」「空青」に何かがひっかかったのです。何が足りないのだろうと。

それで気が付いたのが「あの花」も含めこれらの作品は皆「ゼロになる話」なのだと言う事です。

つまり「何かのトラウマでマイナスになって一歩も前に進めなくなった人達が、無償な愛をもたらす菩薩の様な者たちに、ゼロに戻してもらう」話だったのです。

ゼロになり普通になる、だからこそここからは普通に歩いて行ける。ここからは普通に生きていける、と言う話なのです。

そしてゼロになり普通になるからこそ物語は終わるのです。もう見る必要のない当たり前な人になったからこそ物語は終わる。普通な人生でいいじゃないか、と言う物語なのです。この辺は良く出来てますね。

 

しかし「ここさけ」の問題はここにあります。普通になり、普通の問題もある子供に主人公がなる。普通に恋愛も出来るようななり、普通に挫折する。そして普通に人としての嫌な所も出てきてしまうのです。普通になるとはそう言う事です。良い事ばかりではなく、良いも悪もあるのです。そこを誤魔化さず描こうとしたのでしょう。

しかし見ている人は普通の人は見たくはないのです。映画館なら隣の他人でも見てるようなものです。金を払って何を見せられているんだ? と言う事になるのです。

普通は良いですが、普通じゃない物を見に来たのがお客さんです。だから普通を普通に見せた時点で間違いです。じゃあ主人公以外で普通を見せるか、もしくは普通はあきらめるかです。

でも大体が普通でも、少しの良さで主人公になれるものだと思います。映画版ののび太スネ夫ジャイアンは少しの勇気を見せるのです。それで主人公になる。「ここさけ」でもほんの少しの勇気を見せれても、よかったのではないでしょうか? ほんの少しなら。

 

「あの花」はマイナスが大きいですね。子供の頃に友達が近くで死ぬ。どうする事も出来なかったと皆が思える事です。

大きなマイナスからゼロになる話なので、見てる人はとても感動するのです。とても前に進んだように思えるのです。

人は人が前進する所が見たいのです。前に進むところを見たいのです。だから前に進んだと思わせれたのか? が大事になります。「あの花」はマイナスが大きいからこそ、ゼロになった時大きく進んだように、見せれたのです。

ネットで映画版の感想を見ていると「テレビ版の最後から何も変わらない」と言うような意見も多くありましたね。これは進んでない様に見えるからです。しかし私が思ったのは、良くも悪くもコンセプトからぶれませんね、と言う事です。つまりあくまでゼロになって終わりなのです。ではどうすればよかったのか? これは好き嫌いが分かれますから難しいですね。しかし例えば、さらに十年後、じんたんとあなるが結婚して子供が生まれる時に昔を思い出す話、でも良かったと思いますけどね。

 

「空青」も見事にゼロになって終わりの話でしたね。主人公も姉もしんのすけも「これからが始まりだし、これから歩き出す事が出来る」と言う所で終わりですからね。これもコンセプトに対し綺麗すぎるのですかね。

ただ流石に少しは未来を出した方が良いと気が付き始めてて、最後エンディングで写真で未来を見せたりしますね。

しかしもっと前に進む話だと、強く描く話でもいい気がしましたけどね。あおいは友達にもつっけんどんだったのが変わるとかね(いや実は最後に写真で描いているのだろうけど、もっと大々的にと言う事です)。姉としんのすけがゼロに立つ話はそのままでも、あおいの方は成長して前に進む話でも良かった気がします。

 

気になったのはこの三つが「ゼロに向かう話で同じだ」と言う事です。

つまりマイナスからゼロに行ったが、ゼロに閉じ込めれれてるのは製作者達では無いでしょうか?

ゼロに向かいこれから歩き出せるようになる物語は良かったです。何も間違いでは無いです。しかしそれを描いてきた製作者達は、もう前に進んでも良いのでは無いでしょうか?

個人的に、これから勇気を出して一歩前に進み始めるのは、製作者達である事を願います。