号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

名状しがたき作家なるものの叫び声

作家の心は時に空を飛び、大気圏を超え、星々の中をさまよい、いつの間にか次元を超えあの世に行ってしまうものですね(そこが天国か地獄かはありますが)。

それはもはやコズミックホラーですね。

コズミックホラーはSFでは無く、心の深淵にある宇宙から這い上がってくるホラーではないのかと、昨今思っています。

と、この題名の表の理由はこうなのですが、裏の理由はTRPGの「Call of Cthulhu」第7版販売おめでとう、と言う事です。

まさかこんなに流行りが続くなんて誰が思った事でしょう? 子供の頃に良く分からないで箱を買った私としては感無量です。

そもそもアメリカの作家ラヴクラフトの1910年代頃から発表された小説が元ですね。それが時代を超えゲーム(TRPG)になる。その後日本に渡り、それから世代を超えて愛され今にいたる訳です。

幻想の存在、ラヴクラフトの落とし子が時代を超え、形が変わり、国を超え、世代を超えて、今現在の日本で皆の頭の中を闊歩しているなんて、誰が予想できたでしょう?

形を変えたが、心の中で生き続けている、と言う事でしょうか?

 

さて、アニメ作家の事です。あくまで私個人の感想を言います。

まずは皆が知っている宮崎駿さんから。

私は「風立ちぬ」が嫌いです。でも結構みんな褒めますね。

皆思うでしょうけど遺書に見えますね。私は遺書は身内が見るものだと思います。他人が見るものでは無い。

多分皆、宮崎駿レベルだと身内気分なんでしょうね。だから遺書でも見てられるのでしょう。

それにあれは自分擁護に見えます。自分の生きざまを擁護するために作ったように見える。駿さんは否定するのでしょうけど、そう見えます。

声優に庵野さんを入れてますね。駿さんは庵野さんに「お前は正直だ」と言ったそうです。エヴァゲのラストで何も無いとすなおに表した事に対してだそうです。そしてそれは、駿さんは自分はすなおでは無いと思ったと言う事ですね。

しかしです。すなおでは無く取り繕うのが人だと思うのです。大人だと思うのです。

だが駿さんはこの時すなおに生きている庵野さんが正解だと思ってしまったのでは無いでしょうか? だから最後すなおに自分擁護の話を作った。それが「風立ちぬ」だったように思えます。だから声優が庵野さんなのでしょう。

 

宮崎駿さんは司馬遼太郎さんが好きだったそうですね。

司馬さんは最後まで戦ってはいなかったかと思うです。

司馬さんは最後の十年、小説を書いてはいないそうです。現実の日本を憂いていた司馬さんは、小説を面白おかしく書けなくなっていたのでは無いのかと思うのです。しかしその中でも出来る事をやって文字は書いていきましたね。それに小説もいつか書こうとしていたようです。筆は折っていない(駿さんは目が悪くてつらいようなので同じでは無いですが)。

司馬さんは最後まで日本を憂いていたようです。この人ぐらいなら「私はよくやった。成功した。良い人生だった。後は任せた」と言って死んでいっても良かった人だと思います。でもしなかったように見えます。

駿さんは最後の作品で自分にすなおになり、自分の擁護を書いた遺書を描く、それを見てあの世の司馬さんがどう思うのか?

いや、あの世など無いと思っている私が思うのはそんな事ではないですね。今わの際に宮崎駿さん自身が「あの世の司馬さんは自分の生きざまを喜んでくれる」と思えるのか? と言う事です。

私が想像する駿さんは後悔しないのか? と思うのです。この人なら気が付いてしまうのでは無いのかと思うのです。後悔して死んでいくのか、と思ったのです。だから気にくわなかった。本当にそれでいいのか? と言いたかったのです。

しかし宮崎駿さんはまた筆をとりましたね。良かったです。それがどんな作品になるのかは分かりません。しかしあらがってほしいですね。生き様を見せてほしいのです。言葉は大事です。しかしもっと大事なのは上手い事を言う事ではない。生き様を見せるのです。背中を見せる事です。それが次の時代に残せる事なのです。

正直どんな話でもいいし、もっと言えば作ってる最中にこと切れてもいいので、宮崎駿さん自身が司馬さんに胸を張って死んでいけるようにと、願うばかりです。

 

毎度おなじみヤングサンデーと言う動画があります。

その中で今回は「逆襲のシャア」をやってました。その事に対しての考察です。

私は「Zガンダム」は見てないし、「逆襲のシャア」も昔過ぎて覚えてません。なのでヤングサンデーで言ってた事からの考察です。つまり他人のまわしで相撲を取ります。

シャアはなぜアムロにこだわるのか? そしてアムロはなぜシャアを無視しないのか? それはこの二人の関係性を分かりやすく言えば兄弟だからでしょう。双子の兄弟でもいい。

この話が例えば「本当の兄弟で小さい頃に離れ離れになり、一人は王族として、もう一人は庶民に育てられた話」と思い見れば分かりやすいですね。

シャアはアムロが自分と中身は同じだと思っているのです。しかし庶民、つまり愚民に育てられたアムロは分かっていないと思うのです。そしてそれを認める訳にはいかない。それは自分の生きざまを否定されるからです。自分のかたき討ちの人生の否定になるからです。だからアムロが間違ってなくてはならない。これはアムロとの決着と言うより、自分の人生との決着なのです。

アムロが自分と同じだと思わなければ「あいつは中身が違うから」と思える。しかし同じだと思える奴が違う結論を出すのは、自分の否定になるのです。人生の否定になるのです。同じアムロが違うのは育った環境が違うからだと思う。庶民の中でぬくぬく育ったのが悪いのだと思う。つまり愚民に染まったのだ思う。だから庶民では無く愚民でなくてはいけないのです。

アムロもそうです。シャアが他人なら無視すればいい。しかし兄弟が「出てこい」と騒いでたらどうします? 「何やってるんだ!」と出て行くでしょう? そういう気持ちなのです。赤の他人では無いからこそ無視が出来ない。

ではなぜシャアとアムロが兄弟みたいなのか? それはもちろん二人の富野さんだからです。富野さんが同時に生み出した二人の分身がシャアとアムロです。だから双子の兄弟みたく似ているのです。

最後シャアは情けない事を言います「ララァは私の母になってくれるかもしれなかった」と。それは「母が欲しかっただけ」だと言う事ですね。

シャアは結局アムロに勝てない。アムロを曲げれない。シャアは何でもできたはずです。自分が正しかったはずです。しかしアムロは変えれない。愚民にぬくぬく育てられたアムロに勝てない。そこで心が折れる。だからアムロに弱音を吐くのでしょう。本音が出るのですね。

ヤングサンデーで面白い事を言ってましたね。シャアはマザコンだがそれだけではない。ファザコンロリコンだと。つまりシャアはあの時から時が止まっているのです。父が殺され母と離れ離れになった時の少年時代に、時が止まったのです。その時からかたき討ちの為に生きてきたのです。

アムロは父母がいましたね。父は大した人では無いようですし、母は幼いアムロを置いて出て行ってますね。でもいたのです。母だって会おうと思えば会えたはずです。テレビ版で一回あってますし、そこでアムロは縁を切っている。つまりいない事のトラウマは無かったのです。大した事のない親のコンプレックスはあったでしょうが、それでもいた事が大事です。

逆にシャアは両親とも大した人だったようです。だからこそ失った悲しみが大きかった。そして憎しみがかたき討ちに発展して、そこで時が止まってしまったのでしょう。アムロと逆にいい両親で身分も高い。しかしそれがトラウマになる。皮肉ですがそういうものですね。シャアの両親のせいでは無いですが、親は子を巣立ちさせなくてはいけないのですね。

シャアは仮面をつけている時の方が、表の心には正直でしたね。しかし逆シャアで仮面を取った時の方が自分を隠した。しかしです。深層心理ではどうだったのか? シャアは自分でも気が付いてなかったが、かたき討ちをしたかったわけでは無いのです。ただ失ったあの両親との暮らしの続きをしたかっただけなのです。その事を仮面のシャアは隠して生きてきたのです。自分自身にです。しかし逆シャアではそこに気が付いた。ただあの子供の頃が恋しかっただけなのだと。

アムロにその事を漏らす。これは「お前は良いよな」と言う事です。愚民であり愛情も薄い両親だが、いたのです。その位は今の核家族では良くある事ですしね。その普通の愚民の暮らしの中で青年まで育ったアムロに「お前は良いよな」と言ったのです。

シャアは器用だった。才能もあった。だから上手くいったのですね。誤魔化し仮面をつけかたきを討ち、頂点まで上り詰めた。しかし上手過ぎたからこそ、本当はしたかった事では無いのに気が付かず来れてしまったのですね。普通は途中で挫折して、その中で普通の幸せを求めるのです。しかし上手過ぎたからこそ、時が止まったまま来れてしまった。

アムロはシャアと違い大きなコンプレックスが無かった。だからようやく大人になれそうだった。だから、スポンサーに止められ映画では子供は出てこないが、元の話ではアムロに子供が出来る話だったようですね。だから大人に上がれたアムロは父になり、大人になれなかったシャアはマザコンファザコンロリコン大三元と言う話になる所だったのでしょう。

 

さて、問題はここからです。シャアは富野さん自身だと思われているようですね。

富野さんは実写ドラマをやりたかった人ですね。アニメでは無く。

富野さんはうま過ぎたのです。器用過ぎた。だからシャアみたく上手くいったのです。頂点まで上り詰めたのです。

多分富野さんの同期でも実写をやっている人がいたのでしょう。そしてその人は多分世に名も出てはいないですね。

富野さんは「何もやらしてもらえないのに実写で頑張って何になる?」と思ったのでは無いでしょうか? 始めは好きでもなかったが、アニメで頂点に立った自分は正しいと思ってたのでは無いでしょうか?

そんな富野さんが好きな実写をやっている人に、言ってってしまったのでは無いのかと思うのです「お前は良いよな」と。そんな物語です。

シャアはいなくなりました。しかし富野さんは生きてます。物語は続くのです。

その後Zガンダム劇場版でカミーユが生き残ります。「戦うニュータイプが生き残ってもいいじゃないか」と思えるようになったのでは無いでしょうか? これは「アニメで戦うやつは皆死んでしまえ」と言う呪いから解放されたと言う事では無いでしょうか?

富野さんの物語はまだまだ続きそうです。どのキャラよりも主役級ですね。

 

さて、幾原さんです。「ユリ熊嵐」です。ネタバレです。

ユリ熊を考察していって、この作りならウテナはいるよな、と思っていました。

しかしウテナは見ていないので、分からないよな、と始めからあきらめてました。

しかし声優が入ってる可能性があると分かり、じゃあウテナの声優かもしれないと思ったので調べました。

ウテナ役の「川上とも子」さんは亡くなってましたね。2011年です。そしてwikiによると幾原さんと関係性が強い人だったそうですね。そしてカトリック教徒で洗礼名は「セシリア」だったそうです。

だとすればです。だとしたらこの人がユリ熊にいない筈がないじゃないですか! いやこの人が始まりなのかもしれない。

 

箱仲 ユリーカはなんでユリーカっていう名のだろう? と思っていました。どこにつながるのだろうと。

椿輝 澪愛(つばき れいあ)の服装です。青に服に首周りだけ白い。それに黄色い星のペンダントでひもは赤です。どう見てもドラえもんじゃないですか? 何なんだろうと思っていました。

川上とも子さんは、のび太の母の少女期の声をしていたのですね。そう澪愛が川上さんです。

椿輝は音読みだと「チンキ」または「チュンキ」です。澪愛と言う名は本当に自分の子に付ける人がいるそうです。そして「レイア」か「レア」と読ませるそうです(ただそうなると名前の漢字はどう読んでもいいのですけどね)。まとめると「チュンキレア」です。

洗礼名「セシリア」は実在した人物「聖セシリア」から取っていますね。イタリア語だと「チェチーリア」、ドイツ語だと「ツェツィーリア」、古典ラテン語だと「カエキリア」と読むそうです。

ちょっと無理やりですが、椿輝 澪愛はセシリアでは無いでしょうか?(椿輝に他の意味を持たせるために無理やりになったのだと思いますが、よくやった方だと思いますけどね)

ユリーカは「見つけた」と言うような意味ですね。箱仲 ユリーカの名は、箱の中で見つけたと言う事でしょう。箱は病院かCTかMRIかで、見付かったもの、癌ですね。それに殺された事を暗示してる物語でした。

聖セシリアは音楽家と盲人の守護聖人だそうです。だからユリーカが澪愛に救われた時白黒画像からカラーになる演出をするのですね(この場合は色盲になりますが)。この演出が取ってつけたような感じがしたのですが、セシリアのヒントだったのですね。

そして銀子が澪愛の「スキの歌」を知っている演出です。これも澪愛の残したものがペンダントに絵本に加え「スキの歌」まで出てくる。アイテムが多すぎるし、歌はここしか出てこない。この余分な演出は何だろうと思っていましたが、これもセシリアを示すものだったのです。

澪愛は亡くなってしまいます。しかし子供を残します。紅羽です。

父は誰だろう思いましたが、キリストを産んだマリアの様にいないのですね。

紅羽はユリ熊の主人公のうちの一人です。つまりこの物語の半分は川上さんが生んだと言う事なのでしょう。この物語の始まりは、幾原さんが川上さんの死から連想されたのではないのでしょうか? そしてカトリック教徒である事からも、ユリ熊の内容が決まった事のように思えます。

そしてそれと同時に、川上さんは亡くなってしまったが、川上とも子さんが残したものが後世に残っている事を、アニメや心の中には生きて残っていくと言う事を、言いたかったのではないのでしょうか?

 

なんでしょうね。ユリ熊の中に幾原さんが込めたものが分かってきたら、叫びたくなりますね。

空の向こう、雲の向こうに向かい叫びたくなります。

「ユリ熊ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」ってね。