号漫浪正大

輪るピングドラム ~アニメを見直す

ハッピーエンド

まどマギ「叛逆の物語」と「ダーリンインザフランキス」のネタバレが含まれます。

エンディングテーマの事を主に書きます。

 

最近気が付いたのは、エンディングテーマは制約があまり無いので本編でやれない事が出来たりするものだ、と言う事です。

 

ここで前にも言いましたが「サクラダリセット」なんかでは、エンディングで本編から想像できないほど暗い重い歌にしてましたね。これは本編の内容が小説原作でそのままやると、どうしても薄い感じの物語になる為、苦肉の策としてエンディングで重さを付けようとしたのだと思います。

そして後半は歌も変わり絵も変わったわけですが、この絵で本編で物語上描けなかったヒロイン的な少女の叫ぶシーンを入れてましたね。これも原作通りに話を進めると、本編では出来ない事をする為の苦肉の策に見えます。これも重さを付けたかったのでしょう。社会人は色々制約があるので、心中お察しします。

 

アニメ版「寄生獣」のエンディングが好きなのですが、この絵は普通の町中の家の玄関がほとんどでしたね。それに歌を入れると、普通の毎日の生活を思い描けるようなものでした。

寄生獣は普通の生活の中での死の恐怖がハラハラさせる内容だと思いますが、これもずっとやっていると怖くなくなります。

戦争映画なんかで沢山人が死んでいくのを見ると麻痺していきますね。

そして戦ったりすると気分がバトル物に近づいていきます。ドラゴンボール北斗の拳だともう死の恐怖は感じられませんよね。

それをこのエンディングでフラットに戻してくれてるように感じられました。普通の毎日の生活の感覚に戻してくれているのです。

そしてまた普通の生活の中での一個人の恐怖が感じられるのです。

なので一見なんて事ないエンディングですが、とてもこの内容にあっているし効果があるエンディングだと思います。

 

あと「エクセルサーガ」のエンディング、犬歌ってますね。「わんわん」言ってますね。ふざけてますね。でもやりきっていて面白いですね。

 

ダーリンインザフランキス」のエンディングは、リアルに描かれた都会の街の夜に一人たたずむ女の子でしたね。私はこれがあったのでかろうじて最後まで見ました。一応作者の何かやろうと言う思いが伝わったので。

しかし最後まで内容は「温故知新」をやろうとしたが「温故」で終わったような感じでしたね。昔の色んな物の良さをもう一度使おうと思ったのかもしれませんが、今はもう無いのは意味があるのです。昔あって今ないのはそのままだとダメだから無くなったのです。その辺が残念でしたね。

その中でも面白かったのは暗喩ですかね。子供が大人に騙されて使われている、しかも使い捨てにされている物語でしたね。

しかも大人は子供のパパと思わせているが、実は違うものだ、偽物だと言う描き方ですね。

それを今の時代に重ねているのですね。アイドルが大人達に騙され搾取されているようなものです。「私たちは君たちに親の様な存在で君たちの為なのだ」と嘘を言うプロデューサーのようでしたね。

そしてアイドルにやらしい格好をさせるドラマに、君たちの成長の為だと言って出させるようなものなのでしょう。つまりエンディングに描いてあるリアルな世界のリアルな子達に、このアニメの役をさせているようなものだと言う暗喩なのですね。

それと共に、都会の夜に一人いる女の子、不安定で危険ですね。それに「君、うち来ない」と声をかけないか? かけたいと思わないのか? と言う見ている人に対しての忠告でもあるのでしょう。パパは君達かもしれないと言うのです。

このアニメの女の子のロボットに搭乗する格好が、やらしい通り越して「大丈夫か?」と思わせる物でしたね。それで物語をハーレム物にでもしてくれれば逆にいいのだが、そうでもない所が気持ち悪さ爆発でしたね。

その事に対してのアニメ制作者の自分たちへの批判でもあるのだろうと思い、エンディングを見てました。

これはなんなんでしょうね? 多数の人が係わっているのだから、このやらしい搭乗方法を推し進める人と、それを批判する人がいたと言う事でしょうか?

物語は最後の方に、このパパと呼ばれる子供を使い捨てにする人も実は騙されていて、その上にもっと象徴的な奴らがいると言う描き方でしたね。面白いですね。

つまりもっと象徴的な会社とか株主とか社会があり、それにプロデューサーも騙されてこき使われているだけでしかない、と言う事なのでしょう。そしてアニメ制作も実は下から見ると形のはっきりしない奴らがもっと上にいて、それが問題の大本なのだと言っているのですね。結局そいつらが女の子に意味のないやらしい格好をさせているのだと言いたいそうです。

そして最後はそいつらに特攻して自分もろとも葬り去るアニメなのです。

つまりダメですね。バラバラなのが伝わってくるアニメでしたね。所々その中で何かやろうと心ある人が頑張っているのが見える分、痛々しいアニメに見えました。

 

まどマギ「叛逆の物語」のエンディングテーマ「君の銀の庭」の事を書きます。

もう何度も言っているのですが、伝わって無いだろう事を書くのと、言って無い事と、「大事な事なので二回言いました」的な事を書きます。

見れば見るほど「君の銀の庭」はこっていますね。色々仕込んでいて良く出来ています。私はこの歌好きですね。とてもこのエンディングにあってますし、何か人の未熟な良い悪いも含めた人生を感じられます。

 

私は前に「君の銀の庭」は「男達の理想の箱庭」だと(言うような意味を)言いました。今でもそう思っていますが、これは全否定ではありません。それは作者もそうでしょう。庭は箱庭ではあるが、家の中の安らげる場所でもありますからね。全否定ではない。

男の理想だけだとダメだと言っているのだと思います。男と女の理想でバランスを取っていくのです。それが人の正解です。

それを勘違いさせない作りなら構わない。つまり北斗の拳なら構わないと思います。あれはどう見ても男の世界観だけのものだと皆思うし、勘違いしないのです。

しかしまどマギでこれをすると、男の理想が正解だと思う子供がいるのです。大人もいるのです。なのでダメなのです。

 

前にも言いましたが「君の銀の庭」はパッと見ると「ほむらの銀色の鳥かご」に見えますね。そしてまどかを閉じ込め「窓辺でさえずって」と言っているように見えます。上手いトリックですね。魔女化したほむらはそうだったので、間違ってはいないのですが、正常なほむらの本心は違うと言っている所が良く出来てますね。

この歌はほむらとまどかしか出てこないですね。あと可能性があるのは見てる人自体の事位です。理由も無い事ですが、この事は多くの人が賛同してくれると思います。

「ひたむきな小鳥の声で歌う子供は 何を隠し何を壊し」とあります。「壊し」とあるのでほむらの事しかないので、ほむらが小鳥だと言う事になるのですが、丁寧だなと思うのは「は」を入れる所ですね。この歌は助詞をわざと少なくしていると思います。しかしここは分かりやすように「は」を入れている。実はほむらが小鳥だと強く言いたかったのだと思います。

ほむらが小鳥だとしたら「何処にも行かないで 窓辺でさえずって(いたい)」だと思います。これも丁寧なのはこの前に「窓辺でさえずって 何を失くしたって」とあるからです。これは「何を失くしたって 窓辺でさえずって(いたい)」ですよね? だから逆に読むのだと丁寧に言っているのですね。

なのでほむらが小鳥であり、「窓辺で」つまり「まどかの近くでさえずっていたい」が正解だと言っているのです。

 

君の銀の庭」は色々仕込んであります。

この歌自体も、そして絵もそうですが、一番に当たる所がいわゆるテレビ版ですね。そして二番に当たる所が叛逆の物語を表しています。

一番に当たる所の終わりで、まどかと思われる左の子のアップが上に登っていく、つまり円環の理として神のような存在として天に昇っていく。歌は「君の銀の庭へ」と歌っているのでこれも同じで「男たちの理想の箱庭」であり満月の事です。そこに行ってしまうのです。

そしてほむらを表す右の子は下に行く。下界に人として取り残される。

 問題はまどかは左をほむらは右を向いている事です。実体としては見れない存在として離れ離れになった、と言う事です。

そして一度両方の子が画面からいなくなる。これが区切りを表しています。テレビ版の終わりです。

 

そして二番が始まる前にまどかが口の絵になる。魔女化したほむらに捕らえられて小鳥としてさえずっている状態です。ほむらは目ですね。それを見ている存在です。

叛逆の物語が始まる前にはもうほむらは魔女化しているので、歌としても二番が始まる前にこの絵が出るのです。

そしてほむら側は雨になる。涙ですかね。劇中の魔女として形どった所です。

そして上から手が出てくる。まどか側からも下から手が出てくる。ちぐはぐの所から出てくる手であり、救済の手ですね。それがつかめません。手を結ぶ事が出来ない。ほむらが円環の理を拒否して悪魔化した所です。

物語で最後まどかが円環の理だと思い出そうとしましたが、ほむらに「まったまった」と止められてましたね。まどかはほむらの力に包まれていて自分の一部分しか見えなくなっている。その事を歌の中の絵で表しているのが、カッパを着たまどかですね。

そしてほむら側ですが、雨がやまないのですね。晴れない。この雨の中傘をさしてでもそのまま生きていこうと言うのです。悪魔化ほむらですね。

歌は「ここにいるよ」と歌う。これはほむら自身の事かもしれませんが、「まどかがここにいるよ」という歓喜の声にも聞こえますね。

そしてまた二人が絵から消える。ここで叛逆の物語が終わりです。

 

そして歌の方は三番では無いので、たぶん未来ではなく総まとめを言っていると思いますが、もしかしたら未来の事かもしれません。

ただこの後の絵は未来の事です。つまり今後の事もわざわざ伝えているのです。本当に丁寧ですね。

全ての物語が終わった後も、生き抜いたキャラには人生があるのです。未来がある。まどかとほむらがまた絵で出てくる。今後も色々あるだろうと言うのです。

そして最後両方から手が出てくる。横から対等の存在として手が出てくる。そして手をつなぐ事が出来るのです。

まどかは実体を持ち、ほむらと手をつなげる存在になったのです。そして未来、手をつなぐ事が出来ると伝えている。

そして向こうに走っていきます。手をつなぎ一緒に生きていけると描いているのです。

右でも左でもなく、奥に走るのだから物語は終わりです。

そして奥に行くと丸く見える。二人で一つの丸に見える。

月は大きい完璧な丸で神々しいが、それは人では無い。

二人で長く生きていく向こうに見える、丸に見えるだけのいびつな丸が人の丸なのです。

神ではない人は、この丸を目指して生きていくのです。

 

魔法少女になったらいつか魔女になる。魔女になったら人を殺していく。問題がある。しかし悪魔化ほむらは問題がありません。

私は始めおかしいなと思いました。魔女になると問題があると描く作者が、悪魔には何も問題を残さない。悪魔のマイナスの対価が無い。

でもだからこそわざとなのです。問題があるようで何もない、だからこそトラウマを残さない。お菓子の魔女まで含めた皆が生き返り、問題も無いのです。Zガンダムと同じでトラウマを消して終わらせているのです。

最後のさやかの浮かべる涙のシーンも説明口調ですね。それがほむらの浮かべる涙の説明なのです。丁寧ですね。ほむらの願いはこの程度なのだから、これでいいじゃないかと言っているのです。

 

悲しい事に、まどマギはもう続きません。

嬉しい事に、ハッピーエンドなのです。