号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

神の向こう側

アニメ 「魔法少女まどか☆マギカ」 を見て思った事を書きます。

ネタバレです。映画版はまだ見てないです。

 

おもしろーい。なるほど、騒がれてたわけですね。

 

私は「三人寄れば文殊の知恵」だと思っていて、他人の意見を聞かない奴は馬鹿だと思っているので、普通に他人の考察サイトを見るのですが、他の所で書いてある事を書いても意味がないのでそれ以外をなるべく書こうと思っています。

そして「山田玲司ヤングサンデー」と言うパンチのきいた名前の(冗談ですよ)動画をたまに見ていて(無料分と有料がありますが)そこでこのアニメの事も言っているのですが、とても良く出来ているので、それを外して書くと言う事は普通の事は避けている内容なので、ご了承ください。

 

なので始めに断っておきますが、終わり方が今一気にいらなかったです。そこまではとても良かったですけどね。

最近難解アニメで検索したのを見たりしてるのですが「lain」「エルゴプラクシー」「サクラダリセット」「エンジェルビート」それに書籍「ホモデウス」、これらと「まどマギ」に共通している所があります。それは「神」になろうとする人が出てくると言う事です。そこが気に入らない。

これにも関わってくるのですが、このブログでは毎度おなじみ「ピンドラ」と言うアニメが無ければもっと「まどマギ」の評価は私の中で高かったでしょう(いや評価は高いですけど、もっとと言う事です)。

 

昔のおとぎ話ですね。本当は怖い話のシンデレラみたいなものです。昔は生きる死ぬがリアルだったのに、今は精神的に遠くに行ってしまいました。しかし実は今も死は隣り合わせです。それらを誤魔化さず描く人も必要なのでしょう。何年も何十年も悪い事を誤魔化し続けた後、もう誤魔化しが出来ない事は皆気が付いていた。その事に気が付かなければならなかった年、2011年に出てきたアニメですね。

まどマギ」も「シュタインズゲート」も「ピンドラ」も2011年。すごいですね。これらのアニメがやったのは震災の年ですが、考えられてたのは震災の前です。その時にはもう気が付いていたのですね。感じていたのでしょう。もう誤魔化しはいけないのだと。

 

このアニメの様にダークな話から……

2011年の震災の前、とても覚えています。

東京在住なのですが、あの頃とてもとても電車の人身事故が多かったですね。人身事故と言いますが、ほとんど自殺でしょう。リーマンショック後であり不況で死んでいった人の多い時期だったと思います。毎月の様に、しまいに毎週の様に駅の電光掲示板は何線で何時に人身事故がありました、と出てましたよね?

その頃、テレビでは何を言ってたのか? 覚えていますか? 私は覚えています。きれい事しか言わなくなってました。内容もなく、ただ誰かをほめるとか、何が素晴らしいとかきれい事しか言わない、言わせない雰囲気でした。

でも人身事故真っ盛りですよ。世の中が良くなったわけではない。でもきれいごとしか言わない。

もう末期症状じゃないですか。「おじいちゃん、もう何を食べてもいいのよ。どこに言っても何をやってもいいのよ」といっている看護婦さんじゃないですか。これがとてもとても気持ち悪かった。世の中どうしたのかと思ってました。世の中良くなってないばかりか悪くなっているのに、良い事しか言わないのは「もう何も出来ないからあきらめよう」と言っていたのでは無いでしょうか?

その頃の末期の雰囲気から出されたアニメが「まどマギ」であり「シュタゲ」であり「ピンドラ」なのです。ループ等の終わらなければならない日常からの脱出であったり、このままではやばいぞとダークに言わないといけないと、感じ取っていたものが出てきたのでしょう。

そして図らずとも2011年が来ます。皆いやがおうにも目を覚まされます。

強く覚えているのですが、あの震災後数か月、ぴたっと人身事故が無くなります。そしてまた数か月たつと昔ほどでは無くても戻ってくるのですが、私が言いたいのは「今すぐに死ななければならない人はそうは多くない」と言う事です。つまり可能性はあると言う事です。希望だけはまだ残っていると言う事です。今はまだ希望だけですけど。

で、その後はどうなったのか? 初めは良いのですが、意識してないで目が覚めてもまた眠りにつくものですね。二度寝です。まるで何もなかったかのような日々なってきてます。ほむらの様に世界は少しだけ変わり、しかもほぼ元通りの生活になってきてます。この国は焼け野原にでもならないと本当には立ち直れないのだな、と思ったりもします。

2019年9月現在、これから大きな不況がくると言う人がいますね。リーマンショックどころではない不況がくると言う人がいます。当たるかどうかはともかく、当たったらどうなるのでしょうね? もし当たったら、この辺のアニメが言ってた事を思い出して下さい。もう一度、デジャヴの様にまた目を覚まされる。注意はしてたのだなと思いだしてください。伏線回収ですよ。

 

キュゥべえの話が面白ですね。

宇宙のエネルギーがなくなっていくので、作らないといけないと言います。

私たちが池の中に住むプランクトンだとします。そして力のある魚がキュゥべえを作ったとします。プランクトンが魔女になる時、池の水が少し増えるのだとします。それをしないと段々池の水が蒸発してなくなり、いつか皆死にます。なので少数のプランクトンの死はしょうがないと言います。

つまりキュゥべえの話は合っていると言う事です。昔の物語なら、このエネルギーで宇宙人が良い思いをする、となるのですが、そうじゃなく宇宙全体の為にもなるのだと言う。新しいですね。

しかもこの位の事が出来る宇宙人なら家畜のように人を飼って増やし、それを魔女にする事もできるのでしょうが、それもしない。だからキュゥべえはましだろと言うが、その通りですね。

理不尽でもなんでも所詮力あるものが何でもできる。誤魔化して魔法少女にしてもキュゥべえはまだましで、良かったと思うべきですね。

もちろん人には人が大事なので、気に入らないのも正解ですけどね。

ちなみにこの宇宙がそうなってるかは分かりませんけど、なっていても不思議ではないのです。宇宙は膨張してるようですからね。エネルギーか何かが段々薄くなって失われて行ってるとしても不思議ではない。それを防ぐ方法を人が見つけたとしてらどうするのでしょうね? 同じ事をしないのか? いや、もっと酷い事をしないのか? と思います。

 

始めに言った様に、終わり方が気にいらない事について話します。

この手の話は哲学的になってきます。

そして俯瞰的な目線になってきて、地球規模になってきます。

なので行き着く先は「神」なのです。個人的には「いや、もういいよ」です。

自分の背丈の目線からどんどん俯瞰的に離れて行って、地球が見える所まで行ってしまう。近くから遠くまで見て来たのだからこれで全てを見たと思い、そこにとどまり、最後にたどり着いたのが最終的な答えなのだと「神」が出てきます。

だから良く「神」になる話にしがちです。分かります。

でも神目線は「神」ならいいが皆は「神」ではない、人なのです。

精神的に地球規模で見て、地球が丸く見える所から地球を見たとして、それが日々の生活に何になるのか?

精神が広大な宇宙をさまよってたとしても、後ろから頭をはたかれたら後ろを見るでしょ? そしてそれが知らない人なら逃げるか戦うか警察に電話でもする。つまらなかろうが下らなかろうが、人はそうするのです。それが人では無いのか?

インドに行って人生観が変わったと言う人がいるが、戻ってくるでしょ? インドで暮らさないし修行もしない。どんなに人生観が変わっても家に帰り前とほぼ同じ普通の生活を始める。

精神的に神目線まで行って、地球が丸く見える所まで行っても、そこで居座れるのは人ではない。人は所詮、人目線まで戻ってくるのです。そしてその見て来た事を元に今何をするのか? 出来るのか? と考えるのです。私にはそれが「神」になる話の向こう側にある話だと思えるのです。

だから「ピンドラ」はこれらの「神」になる話より、一歩進んだ話だと思えてしかたないのです。

「ピンドラ」だって神を出せた話です。でも出さない。物語を進める要素として使ったとしても誰も目指さないのです。今やるべき事は、皆に伝えるべき事は何か? と考えて出された物語であり、レベルが違うのです。

 

なので「まどマギ」は私には残念でしたね。

とっても良く出来てたのに、まだ「神」なのですか? と思ってしまいました。

どうも最近になってもまだ「神」ばかり出てきます。「神」がいなくなって久しいと思っていましたが、まだ人には「神」が必要なのですね。

映画版の「まどマギ」はどうなるのでしょう? 人にとっては「神」の向こう側にはまた人がいるのですよ。遠くまで探しに行ったとしても、青い鳥はいつだって家にいるものです。それを見付けてくれたでしょうか?