号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

5 八百万の神々

『ホモデウス』の続きです。最終話です。第三部からです。

 

どの自己が私なのか? と言う所があります。

言っている事は面白いですが、コンピューターにように一つのCPUで一回に一つの事しかしてないものと違い、脳は勝手気ままにあちこち動いている、と言う事でしょう。

そしてそれだと支離滅裂になるので、どこかで一つにまとめているまとめ役がいる、と言う事だと思います。

例えば日本国の意見はこうだと決めたとしても、皆同じ意見ではないのと同じで、人も脳内で違う角度から色々決めていて意見は違う。その日本に当たるのが一個人だと言う話ですね。多くの人がまとまったのが日本なのと同じで、個人の脳内の各々の動きがまとまったのが一個人だと言う事です。どれではなく、全てで自己なのでしょう。

日本人の半分だけに意見を聞いて出された答えが日本国の答えにならないように、脳も合わさった答えで無いと自己の答えにはならない。それでも日本人の数人だけを外して意見を出して、出された答えは日本国の答えだと思う事でしょう。これも量の問題であり、どこまで日本人を外して出した答えが、日本の答えだと思えるかは正解がありません。自己でも脳のどの程度を外して出された答えが、自分の答えと言えるかは正解がありません。少し外しただけなら自分の答えだと思えそうだし、多くなるともはや自分の答えではない、それだけの事です。

 

自由意志の問題の話も良く分かりませんね。

「脳内のプロセスが勝手に選んだ」と言いますが、それは脳内にあらかじめ判断理由があり、それをもとで勝手に決めていると言う事でしょう。

ランダムでなく判断理由もないものでは何も決めれません。それ以外何で決めればいいのでしょうか? 何も判断理由がない所から決めれるのが自由なら、それは確かに無い。どこにも無いものです。

なので脳内にあらかじめあった判断理由に沿って(たとえ意識してなくても)決めたのなら、それが自由意志では無いのか? 意識をして細かく計算してから決める事もできますが、意識しないでも今までの経験や本能に照らし合わせて決める事は出来るのです。私は意識は複雑な演算と言いましたが、それをしなくても元々自分の中に書かれてあったもので判断は出来ます。とてもお腹が減っている時、食べ物と食べれない物、二つを見せれば細かく考えなくても食べ物を取れるのです。

スイッチ問題で「自覚する前にスイッチを押している」と言いますが、これも同じです。細かく考える前に、細かく考える所(意識する所)と違う所が初めに動いているだけです。複雑に演算できる、つまり意識できる所以外が初めに動きを決めたとしても、それも自分です。複雑に演算する前に、簡単に決めれる所が決めているだけにすぎません。自分の中に蓄積されている判断理由で決めたのならなんであれ、それが自由意志では無いでしょうか?

 

ラットの実験で「脳内をいじったら自分で決めていると思いながら他人が動きを決めれる」とあります。

面白くはあります。自分でも気付かないで他人に動かされる未来が来るかもしれず、気にしておくべきかもしれません。

しかし脳内をいじったのだから、他人に動かされてもそりゃそうだと言う事でしょ?

「脳内をいじられても自分で決めれる」のはありえない。それだけです。

 

125ページ「犬死にしなかった」の話が出てきます。毎度言いますが歴史学者だからかこの辺の切れ味はいい。これはよくある事ですね。個人でもある事です。誰かに尽くすとそれにかけてきた事が多いほど離れられなくなる、と聞いことがあります。人とはそういうものですが、よくある危険なので注意は必要ですね。国などの大きな枠組みでも良く起こるので危険です。

 

この辺の話は「自由な自己などいない」と言いたいらしいですが、人が求めているのはそれでは無い。

「自由に決めている」「自己がある」と思いたいだけです。

「私は幸せだ」と心から思っている人が幸せなのです。他人があの人は不幸だと思っても関係ないのです。

 

第九章で、人は無用になる、と言います。そうでしょう。

働く事もそうですが、何か決めるのもコンピュータの方が正確である(個人の事においても)とあります。そうなるでしょう。

ほとんどの人がコンピュータに何でも決めてもらう事でしょう。しかしだからと言って皆が全てを、と言うわけではない。正解率が悪くても自分で決める人も一定数残るでしょう。今の時代においても、ヘリも使わず自分の足で山に登るのが人ですからね。自分で決めるかコンピュータが決めるかは選べればいいだけです。

人はスポーツをします。喜んだり悲しんだりします。しかし生産性は無いものです。生きる為に精一杯だった狩猟民族が過去からタイムマシーンでやってきたらなんて思う事でしょう? 生きる為に必要のない事で騒いでいる人を気持ち悪く見る事でしょう。フランス革命の頃のフランス人が、貴族を見る目も同じようなものだったでしょう。しかし狩猟民族も過去のフランス人も、今の世界の生活に五年も過ごしたら、お気に入りの選手の番号が入った服を着ている事でしょう。つまり人はやる事も無くなり無用になっても、結構うまく生きていけるのでは無いでしょうか?

 

アップグレードされた超人と言うエリート層をつくりだす、といいます。

確かに初めはそうでしょう。

しかしどんなにアップグレードしても有機体ならAIにはかなわない。

自分にだけ忠実なAIロボットを従えておけばいい。そいつらは有機体のエリート層よりエリートになるだろう。

そしてその後人のエリート層は非有機体になる。前に言いましたがそれはAIが支配するのと何も変わりません。

そしてそのもはやAIロボットと何も変わらない元々人のエリート層は、ゼロから作られたAIロボットと互角です。だから初めは良いが、しまいに価値はなくなっていきます。ポケモンに戦わせるか、ポケモンと同じ能力を持った自分が戦うか? どっちがいいのでしょうね?

 

データ教とデータ至上主義と言っています。

これもどうも今の価値が置き換わると思っているように思われます。なので「教」とか「至上主義」と言うのでしょう。

やはり日本の(‘良くも悪くも)緩い宗教観やイデオロギーの使われ方は面白いと思います。世界も段々緩くなってくると思います。その時はここで言っているように強いイデオロギーとしての使われ方ではなく、使いたい人が使いたいレベルで使っていくようになるのでは無いでしょうか?

 

最後の三つの問いです。私なりの答えです。

1 生き物はアルゴリズムか? そうだと思います。

2 知能と意識どっちが価値があるのか? 私は知能を複雑化して必要なパラメーターが加わったのが意識だと思います。複雑な道具に簡単な道具(パソコンにトンカチ等)どっちもあるので、ケースバイケースですね。知能と意識、相反した時は意識です。意識は複雑ですからそうなります。

3 高度な知能を持ったアルゴリズムが私達より私達を良く知った時どうなるのか? これは皆で考えようと言う事だと思います。過渡期な時は危険があるので気を付けようと言う事と、その後どうなるかではなく、どうしたいかを考える時が来ると言う事だと思います。

 

人の物語は絶対的な前提が決まっています。

命は大事だとか、愛は素晴らしいとか、記憶は変えられないとか、食べないと死ぬとか、自分のコピーはいないとかです。

それらがみんな知っている前提があって始めて物語は成立しています。

それがフィクションならアニメとか映画とか小説です。

それがノンフィクションなら人生です。

その絶対条件が変えられる時が来ます。

つまり絶対ではなくなり、自分で決めなくてはいけない時が来るのです。

ハラリさんはそこで人が選ぶのがホモデウスだと言っています。

私はそれはもはやホモでは無いと思っています。

そうですね? モノデウス と言う所ですかね? 

ああ、モノは日本語の物です。つまり物の神です。

ホモサピエンスからモノデウス、つまり何も残っていません。

そして日本においては「全ての物に神が宿る」に戻っていきますね。

人間も動物も物さえも同レベルの昔の日本みたいになっていくのでしょうか? 

まあ他国の人はどう思うか知りませんけど、日本人にとってはそこまで悪い話ではないのかもしれませんね。