号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

逆襲のイクニ We can share the happiness

山田玲司ヤングサンデー と言う動画があると何度か言ってますが、今回もそれに関してです。ニコニコチャンネルです。YouTubeにも無料分が出てます。

さらざんまいでヤングサンデー、両方知らないと何言ってるか分からないので、書きたいだけの自己満足です。

ただ他人の意見は面白いな、とあらためて思ったので書いていこうと思います。

 

出演者のしみちゃん(私はちゃん付けは好きじゃないのですが、出演者名でこうなってるのでこのままで)がこの物語は今一乗れなかった、と言う様な事を言っていました。

そうだと思います。私もそうでした。それであっています。

 

この動画は、漫画家の山田さんが一話から見て、この話の今後の展開を予測すると言うものです。

私は全て見終わってからこの動画を見たのですが、そうなると山田さんの予測が外れてるなと分かるわけです(私にはそう思いました)。

しかし聴いていると「そっちもありだな。いや、そっちの方が面白そうだな」と感じてきました。

なぜか? それはおじさんだからです。

おじさんがそうなると面白いと予測する。それは面白そうだとおじさんが思う。そりゃそうだと言う訳です。

このアニメは子供向けです。アニメとしたら短い長さの中で、子供に向け今言っとくべき事を詰め込んだ作品です。

だからこのアニメは何も間違っていない。しかし子供向けだからおじさんには物足りないのです。なのでしみちゃんが乗れないのも納得なわけです。

 

ピンドラの時にも言いましたが、物語を見ながら山田さんの予測を聞いてはいけません。

逆に混乱するからです。

前回は奥野君が、今回は久世君が混乱してましたね。そりゃそうです。山田さんは特殊な訓練を積んでいます。良い子はマネしないでね。

 

その久世君は最後の方に感動してたそうです。それもいいのです。

物語の中に今の自分に引っかかる事、昔の自分と重なる事、それらがあればドラえもんでもクレヨンしんちゃんでも泣けるのです。なのでそれでもいい。

しかしそれはたまたま重なっただけの事であり、おじさん皆に通じるものでは無いのです。

で、この久世君の事をイクニさんはやさしく刺したと山田さんは言ってました。そうでしょうか?

私にはイクニさんが虚構批判してるとは思えないのです。アニメを作っているイクニさんが否定してるとは思えない。

「自己犠牲なんてダセー事するな」と言うセリフがある。これもピンドラ否定とは思えない。

イクニさんはバランスをとっていると思うのです。自己犠牲素晴らしいではなく、問題点もある。アニメばかり見るな、現実にも帰れ。と言っているのではないのか?

私が前に言ったように一番右から一番左までパラメーターがあって、その端に居続けるのはおかしいぞと言っているように聞こえるのです。真ん中に来いと言っている。

そればかりか、逆襲のイクニさんがやさしく刺したのは山田さんではなかったのか? と思うのです。

 

私は今回の一番目立つ問題 ア は何か? で、アはアニメのアだろうと言いました。

それがあっているとしたら?

それは考えすぎていて、目の前に当たり前の様に見えている物が、見えなくなっていないか? と言っているのではないのか?

星の王子様の引用らしきものが10話にあります。山田さんは何か意味があると言ってましたがそうでしょうか? 何も無いかもしれないのです。だとしたらそれは考えすぎて当たり前のものが当たり前に見えなくなってる、と言う事では無いのでしょうか?

ただ「虚構の王子様が現実の愛か欲望の塊のアニメどちらかをとれ」と言っているのでは無いでしょうか?

だとしたら、簡単に見ればアはアニメだと分かる。それに王子さまはただの作り物の物語の王子様である。答えは簡単に見れば見えてくるものもある、と言いたいのではないのか? そしてだとしたら虚構批判では無いのではないか?

イクニさんはさらざんまいをすれば考察を皆始めると分かってたはずです。その考察をする人に苦言を呈したのではないのか?

だとしたら今回、逆襲のイクニさんがやさしく刺したのは山田さんだった。

しかしです。これも考察批判ではない。あくまで行き過ぎている物のバランスを取りに来たのでしょう。

 

面白いのは奥野君ですね。今回は子供向けであるのと、行き過ぎた考察批判もあって自然に見ると見えてくる物語です。なので自然に見る奥野君が今回はとても肝心な所が分かっていたように見えます。

山田さんに「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言ってます。そうだと思います。

さわやかだったと言ってます。音楽を使ってこれぞ物語的なものになってる、と言う様な事を言う。イクニさんが影響したものが良いように使われていると言っている。

それら全てが今回の裏のメッセージではないのかと思うのです。フィクションの物語の良さをを見直す、と言う事です。

そして最後の橋から飛び組むシーン。あれは嘘だと言っている。あんなわけないと。しかしフィクションがフィクションで終わり、それで丸く収まっているので良いと言っている。そうです。そこですね。

 

久慈が橋から飛び込むシーン、その時久慈は ア のマークを抜けます。

久慈はアニメに入ります。そして虚構に入り、うその様にいない筈の二人の昔の友達が現れる。

しかしですよ。こうとも思える。

 

学校が終わり久慈にあいに来る二人。しかし家には帰っていない。何処かと思ってたら橋にいるのが見える。そして久慈が飛び込むのが見える。

「おい! あいつ飛び込んだぞ!」

「よし! じゃあ俺らも河童仲間だから飛び込むか! こういう時は飛び込むもんだろ?」

「お前テレビの見すぎだよ。でも飛び込むか!」

 

そうです。こういうダサい演出は友情はテレビの見すぎから生まれるのです。

それが現実になる。アニメが現実になる。

人の正義感なんてアニメやテレビの影響ではないのか?

友情の表し方なんて、愛を伝える演出なんて、どこで学んだ? フィクションからではないのか?

アニメも無駄では無いのではないのか?

そこから現実が生まれてくるのではないのか?

久慈はアニメに飛び込んだのではなく、アニメが影響している世界に飛び込んだのです。

だからこそ友達は嘘くさくダサく一緒に飛び込んだのです。

 

私は前にアニメは希望でもあると言いました。

しかし今回は欲望なのですね。

希望は願うのみです。

欲望は力を感じます。この希望に力を籠め欲望として実世界に戻り自分で手に入れろ。と言いたいのではないでしょうか。

 

ヤングサンデーを見ていると、人と人のつながりは面白いものですね。

そしてさらざんまいを加えると、虚構がこんなにも人と人に影響してたなんて、初めて理解しました。面白いですね。

今回もやってくれましたね。逆襲のイクニさんは。