号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

8 本当の幸い

皆さんは 運命の花嫁 と聞いて何を連想されますか?

 

このアニメ 輪るピングドラム は見てて何かひっかかる事があると、後でちゃんと意味が分かるアニメでした。

なのでまずは何かにひっかかる事が必要です。

なぜペンギン帽はあの二人を助けに来なければならなかったのか? なぜ冠葉の父は冠葉に「お前じゃだめだ」と言ったのか? なぜ眞悧はこのタイミングで復活できたのか?  なぜ陽毬の母親は陽毬を置いていったのか? なぜ3号ペンギンは猫なのか? メリーさんの羊とは? 運命の花嫁とは? なぜマリオなのか? なぜ晶馬の母親のケガをしたシーンが気持ち悪いのか? なぜイクニさんは「ウテナ」の後にまた王子様を復活させるような物語を描いたのか? そしてこれらの全ての答えが最後のあの一瞬の絵に集約されます。

 

いや~イクニさんやってくれましたよね? 今回でピンドラの考察の大きなものは最後です。今後細かなものは書いていくかもしれませんが、流石にもう大きな謎は無いでしょう。しかしこのアニメは歴史に名を残したんじゃないでしょうか? ジブリの作品の様な一般うけをするものでは無いけれども、これはこれで歴史にも心にも残る作品になったと思います。だからこそ世に埋もれているのは残念ですね。しかしARBの歌が何十年後にまたここで使われている様に、良いものはいつの日か誰かが見付けてくれます。この作品は見付けてもらえる作品になりました。今はそれでいいでしょう。

 

 変だなと思う所にちゃんと答えがある。良いアニメです。

なんでこの子の名前は「マリオ」なんだ? と思いませんでした?

マリオは外国人の名前です。しかしマリオの父(冠葉の父と言われてる人)はたぶん日本人です。となると母親が外人だった可能性が高い(たぶん金髪の)。外人もいると言う事を示すように、16話に左兵衛の事をプレジデントと呼ぶ秘書の様な金髪の外人の男が出てますね。

私は前にエスメラルダはマリオの母であるだろうと言いましたが、そうだと強く思えてきました。エスメラルダだけなんで123号ペンギンと違う種類なのか? 外人だからですね(3号は猫ですが、だからこそ三毛猫です。日本猫です。ちなみに南極基地に行った猫もオスですが三毛猫です)。

そして私は冠葉は左兵衛の子かも? とも言いましたが、それも強く思えてきました。

9話でガンジーの七つの社会的罪が出てきます。

理念なき政治(Politics without Principle)
労働なき富(Wealth without Work)
良心なき快楽(Pleasure without Conscience)
人格なき学識(Knowledge without Character)
道徳なき商業(Commerce without Morality)
人間性なき科学(Science without Humanity)
献身なき信仰(Worship without Sacrifice)

ですがもう少し分かりやすく書いてあります。

もちろんイクニさんはこれを描くのだから全て取り入れてます。しかし良心なき快楽はどこだろうと思いませんか? 1号の行動だけでは弱すぎます。やはりエスメラルダの事ではないでしょうか?

そうすると冠葉は冠葉の父の子ではありません(分かりにくいですね)。冠葉は冠葉の父だと思われていた教団の人間の子ではない、と言う所が大事です。そしてマリオの父ではある、と言うのも大事です。さらにそれでもマリオは三兄弟の末っ子だというのも大事です。

 

マリオは外人の子だとして、それでもなぜマリオなのか?

ペンギンの帽子は桃果です。桃果はなぜ二人を助けに来たのでしょう?

それは死にかけていたからです。

ではなぜ死にかけていたのでしょうか?

なぜ死にかけていたのがこの二人なのか? この二人、陽毬とマリオなのか?

 

名前が変だな? と思った人がもう一人います(結構こう言うカンみたいなものは当たってたりしますね)。それは眞悧(さねとし)です。

 

死にかけていたのが陽毬とマリオです。「ひまり」と「まりお」なのです。

そして眞悧です。眞悧は「まり」ではありませんか?

このつながりは? 意味は?

23話で「僕は呪いのメタファーなんだ」と眞悧は言っています。つまり眞悧(まり)は呪いのメタファーです。陽毬とマリオは呪いの名を付けられた二人なのです。

しかしです。しかしそうなると悲しい気持ちになりますね。それは名前に刻まれているからです。つまりこの二人は生まれた時から呪われていたのです。

 

皆さんは 運命の花嫁 と聞いて何を連想されますか? 私は生贄です。

9話で陽毬は「運命の花嫁」だと言われます。

 

メリーさんの羊の話が出てきます。あれは三匹の子羊の話なのです。

旧約聖書にイサクの燔祭と言う物語があるそうです。

アブラハムは神に子供のイサクを生贄に捧げろと言われるお話です。

「父と子でモリヤの山に登る時、イサクは神に捧げる子羊がいないのに戸惑う」とあります。他にもキリスト教では子羊はたびたび生贄の意味で使われるようです(ユダヤ教イスラム教でも旧約聖書に書かれているのだから同じかと思われます)。

ピンドラのメリーさんの羊の話だと、三兄弟の末っ子が罰を受けると言うものです。冠葉、晶馬、陽毬の義理の三兄弟の末っ子の陽毬が罰を受けます。そして冠葉、真砂子、マリオの三兄弟の末っ子マリオが罰を受けるのです。

 

罰とは?

運命の花嫁であり、子羊なのです。生贄です。

生贄は自分の子では無くてはならないのです。そうでないと神に認めてはもらえない。教団に入ったマリオの父は、冠葉が自分の子ではないと気が付いた。だから「おまえじゃダメだ」と冠葉に言ったのです。お前じゃ生贄には適さないと。

 

12話で「世界は再び闇ウサギを呼び込んだ」と言います。誰かが眞悧を復活させたのです。世の中にタダなものなど無いのです。代償が必要です。生贄が必要なのです。

なのでこのタイミングで眞悧だけが実態を持って復活できた。だからこのタイミングで陽毬、マリオの二人は死に向かっていた。

だからこそ桃果はそれを止める為に、ペンギン帽になっても二人の所に来たのです。来なければならなかった。桃果の光が眞悧を形ある闇に浮かび上がらせたのだから、桃果がいたから眞悧は教団に手をかし、それ故に教団が眞悧を復活させたのだから、その為に二人は生贄にされ死のうとしているのだからです。

 

なぜだか分かりませんでしたが、私は9話の陽毬を助けようと晶馬の母がけがをして、病院のベットで横になっているシーンが気持ち悪かった。

良い話です。良いシーンの筈です。なぜでしょうか? それはイクニさんが気持ち悪く描いているからです。良く出来てます。寝ている母を斜め下から撮っている絵があります。不気味ですよね。イクニさん演出下手なんでしょうかね? 違います。母は見くだしているのです。生贄だからです。

運命の花嫁なのです。神に捧げる大事な生贄なのです。傷一つ付けてはならないのです。なので大事にされてた。

演出的には、陽毬が高倉家の子供になる時のシーンがありません。親の白骨死体を見付けた陽毬が泣き崩れるシーンもありません。いらないのです。つながりなど初めから無いからです。

 

陽毬は晶馬と初めて会った頃あの団地にいた。だから陽毬の母も教団関係者じゃ無いのかな? と思いませんでしたか? そうだったのでしょう。

陽毬は初めは可愛がられた。しかし可愛いが消費されて可愛がられなくなった。と思っていたようですが違います。生贄だからです。

テロを起こす前の決起集会の時は靴がそろっています。テロの後、数年後は靴が減っていて雑然と置いてあります。教団関係者がもう駄目だと逃げ出しているのです。陽毬の母も段々やばくなってきていると思っていた事でしょう。だから陽毬の事が段々どうでもよくなってきたのです。そしてとうとう教団から逃げ出します。陽毬は? もちろん元々生贄ですから、連れて行く訳が無いのですよ。

 

123号にエスメラルダも含め3号を除き親です(たぶん)。陽毬だけ付いてくるのが猫なのはどうなんだと思ってましたが、猫しかいなかったのです。陽毬には猫しかいなかった。

第1話の初めのシーン。カラフルなぼろい家に子供三人だけの家族。不安定で何かが足りないように見えるシーンです。しかしです。あそこで見えるものが陽毬にとっては全てだった、学校にも行けなくなった陽毬にはあそこで見える世界が過去も含め全てだったのです。家族はあの義理の二人の兄しかいない。初めからずっとあの二人しかいなかった。

この物語は、アイドルにもなれる親にも愛された可愛い子供が、王子様の様な二人の兄にちやほやされる話ではないのです。

生まれた時からずっと何もない子が生贄として死にそうな時、それでも手に入れたたった二つの絆、義理の兄だけは命を懸けて助けてくれようとしているお話なのです。

 

最終回の最後。陽毬はおでこに傷が残ります。一瞬の見落としてしまいそうなシーンです。

あの傷は、自分を犠牲にしても守ってくれた人が確かにいた、という証です。

そして、もう傷つかない様に大事にされる生贄ではない、という証でもあるのです。

傷つきそれでも生きていく、生きていける少女になった、という証なのです。

 

皆さんにとっての 本当の幸い とはなんでしょうか?