号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

7 時空を超えろ!ピンクモンスター

リスナーの皆へ。面倒くさい話になる前に、まずは 時空をかけるピンクモンスター に捧げる歌を一曲 『愛のため息』

「桃栗三年柿八年 ゆずは九年でなりさがる 梨のバカめが十八年 愛の実りは海の底 空のため息星屑が ヒトデと出会って億万年」

 

私は、物語や音楽や絵画などの見かたは三種類あると思っています。

三つの次元、三つの時空、三つのレベル、とも言えます。

 

一つは、神目線ですね。神様の目線になったつもりで見る。上から俯瞰で見る。神様の考えや思惑を考えてみるのです。

ピンドラで言うとイクニさんですか。アニメは特に風が吹いたのも神の御業(みわざ)であり、髪の毛一本一本の揺らめきさえも偶然が無いので、全て神の思惑通りです。

なので神目線で物事を図ろうとするのは分かります。神が全てを作ったのだから神が分かればすべてが分かる。と思うのも納得です。

二つ目は、もっと潜り、アニメの世界に降り立ち、そこで世界を横に眺めて見るのです。神様の作った世界を信じ、体験する、ディズニーランドです。

この目線の考察が多いですね。楽しいからですね。アトラクションですからね。

三つ目は、もちろん自分目線です。そこは神目線よりも俯瞰で見てる世界であり、一番外の世界であり、一番リアルな世界です。

これは忘れがちですが、結局はこれがその個人にとっての全てであり、正解でもあります。

 

この三つの次元、何処から見てる話なのかは理解してみる必要があります。考察する側も読む側もごっちゃになってる時があり、分かりづらくなっている時があります。

 

さっきも言ったように神が全てを作ったのだから、それが分かれば全てが分かりそうですが、そう簡単ではありません。そもそも神の全ては分かりません。それに神が意図しない物も時にはあるからです。

それにおちいりやすい罠は、神に気をつかってしまう事です。絵も内容も色々おかしいけど、時間も無いし金も無いし大変なんだろうなあ、とか思ってしまう事ですね。その為手の込んだ神様の仕掛けを、見落としてしまう事もあります(特にピンドラ)。

逆にアニメの世界に降り立って一緒にライドした方が、素直に見れます。おかしい所がおかしいと素直に思えます。それにこの方が俯瞰で見るより目線が近くなるので、細かな所まで気づきやすいですね。例えば神目線で見て「神はここで泣かせたいんだろうなあ」とか思うと、もう分かった気になり、細かな所は気にしなくなったりします。それよりも、その世界に降りてアトラクションで感じている時の方が、もっと色々周りの細かな事が気になるんじゃないでしょうか。

そして、最後は自分目線です。これが大外であり、一番俯瞰であり、これが全てです。そこには神が何を思い作ったかなど関係が無いのです。

例えば、武田鉄矢さんの歌の『贈る言葉』。あれは皆卒業ソングのように聴いているでしょうけど、初めに作られた意味は、付き合ってた男女が分かれる時男が去っていく女に贈る言葉です。そんな言葉を男は言いたがるのだろうけど「そう言う所が大っ嫌いなんだよ!」と女に言われるのがオチですけどね。とにかくこれがどういう意味で作られようが、聴いた側が卒業ソングに聞こえるなら卒業ソングなのです。なぜなら自分自身にとっては「これは作者がどういう意味で作りましたか?」問題ではなく「これはどう聞こえますか?」問題だからです。勘違いしてはいけません。去っていく女に言葉を贈ってもいけません。

もちろん潜って見る事は意味があります。もっと近づいて見ると、今まで見えなかったものが見えてくる事もあります。そしてまた離れて見た時に、さっきは気が付かなかったものが今ははっきり見えているのなら、それが正解になったと言う事です。一度近くで見る事で、潜って見る事で正解が変わる事もあるのです。

 

さてピンドラの話です。

ピンドラの世界に降り立ち、世界を信じて見てみる事にしましょう。

 

ピンクの女神、桃果はなんで悟りを開いた人なのでしょうか?

昔々、中学校の先生が言ってました「良い人優しい人になるには学ぶ事だ」と言う様な事を言ってました(授業以外の先生の言葉はよく覚えているものですね)。そうだと思います。10歳で悟りを開く人はいない。20歳でも無理だろう。30歳でも怪しい。では60歳は? 80歳は? 素晴らしい人が年を取るほどなれそうな気がしますよね? 学ぶ事が必要なのです(学ぶ、には経験も含まれていますが)。

では 桃果は? たぶんあの地下にある図書館の様な凍った場所で、永遠に学ぶ事が出来たのでしょう。未来の疑似体験も出来たかもしれません(疑似どころか未来に行って戻って来てるだけかもしれませんけど)。あそこは猫でも学び、編み物が出来るようになれる場所です。素質のあった桃果はその結果、悟りを開いたのでしょう。

桃果が子供だったのもうなずけます。まだ純粋でした。純粋な時にこの不思議な力を得たのでしょう。なので光輝いた。眞悧(さねとし)は大人です。ひねくれた後に力を得たのでしょう。なのでダークサイドに落ちたのです。「まだ子供の内に」と言うのもピンドラのメッセージの一つの様な気がします。

しかし桃果と言うキャラクターは好かれていないですね。アニメを見ている皆さんにです。命をかけて皆を助けて人知れず消えて行こうとしたのに、あんまりですね。でも分かります。人の範疇を超えたものは、悪い者だけではなく良い人もモンスター扱いです。人は理解出来なく共感も出来ないものは怖いのです。桃果のまばゆい奇跡の光に触れたファビュラスマックスとメガネ先生は、一生ついて行こうとしますが、そうでない人はただ恐れおののくのみです。

ちなみにファビュラスマックスとメガネ先生を助けたのは、この二人が未来で子供に愛を贈る人だったからでしょう。きっと桃果は運命を変えて二人を助けているのです。なのでたぶん二人しか助けれなかったのです。この世にただの物など無いのです(これもイクニさんの現実感としてよく出てきますね)。桃果は子供ブロイラーで他の子供を助けはしない。ここで皆を助けて代償として死ぬわけにはいかない。未来で眞悧と対峙しないといけないからです。でも皆を見捨てるのに、そこには感情が感じられないですね。もちろんやっている事は正しいのでしょう。でも感情は無い。しかし感情があればやるべき行動を間違えるので、それも正しい。そこが人を超えた正義は、正しくても共感されないゆえんであります。そんな所も良く描かれていますね。

桃果は感情の無い絶対正義です。眞悧は根底に恨みしかない絶対悪です。だからこそ苹果がいます。もう名前からリンゴですよ。リンゴは色々なメタファーとして使われますが、9割以上は人そのものから発生して出来てます。つまり苹果は人間代表です。「運命の果実を一緒に食べよう」です。人間宣言です。色々完璧では無いけど人として一緒に生きていこう、と言う事です。そして桃果、眞悧がいるからこそ苹果の存在感が光ります。苹果は、空の上でも無く地下深くでも無く、人として人の目線で地面に立って生きていく事でしょう。それでこそ共感され普通の人が出来る唯一の道なのです。

 

ピンクの悪魔、眞悧は何をしたいのでしょうか?

最近のテレビゲームは良く出来てますね。ゲームで強くなります。強くなってラスボスも笑って倒せるようになると何をするでしょうか? 何でもします。良き城の王が強いと知れば戦って殺します。進行に必要な村人を殺してどうなるか見たりします。面白そうな事は何でもするようになります。それはやり直せるからです。死んだ人も無かった事に出来るからです。眞悧も似たような者なのでしょう。何でも出来る何でも知っている眞悧には、もう感情が「面白い」位しかあまり残っていないのです。なので口癖が「しびれるだろう?」なのですよ。

ちなみにもう一つの口癖「だよね」は、「知ってるよ」と「俺の思い通りに進んでるね」の意味ですね。未来も見えるのです。

なので面白そうな事をしているのでしょうが、何が面白そうなのでしょうか? それは結末が分からない事です。それに手に入らないものを追っている時です。そして気になる子にちょっかいを出している時です。

そう、桃果です。同じ未来を変えれる彼女の行為だけが、眞悧の予測出来ない事なのです。それが面白いのです。

ただ、桃果が気になると言っても恋愛では無いでしょう。もっと単純に寂しいのです。

眞悧は「人と人はつながる事など出来ない」と言いながらさびいしいと叫んでいる。桃果は人と人のつながりが大事だと思いながら、孤独を受け入れてる人なのです。

光と闇ですね。光が強すぎた為に地下から出てきた闇です。桃果の存在があったから眞悧はテロに力をかしたのだと思います(自分からしたのでは無くたぶん本当はテロもどうでもいいんですよ)。13話で夏芽真砂子は「全てを明るい光で照らしてしまうと、暗い場所が明かる場所を攻撃する」と言う様な事を言っています。強い光のせいだと言っているのでしょう。

だからこそ、桃果の存在が眞悧を動かしたからこそ、桃果は眞悧に対峙して自分でけりを付けなければならなかった。そしてペンギンの被り物になった時も、あの二人を助けに行かざるえなかったのです(これもまた長くなるので今回は割愛します)。

 

眞悧は面白すぎますね。まだまだ言いたい事がある。

私が勝手に言っている理論で「みんなはお前の事だろ」理論があります。

眞悧は言います「人と人はつながる事など出来ない」と。これは意味としては「全ての人は」と言う意味ですね。全ての人と言う事は眞悧も入ります。いやむしろ「眞悧はそうだ」と言う事です。「俺は誰ともつながる事が出来なかった。だからお前もつながる事は出来ない。いや、出来てはいけないんだ!」の意味ですよね。

例として「男は絶対に浮気をする」と言う女の人がいます。「中には例外もいるだろ」と言っても「いや全ての男は浮気をする」と引かない人がいます。それを聞くたびに「君の男は全て浮気をしたのでしょう。君の父も祖父も兄弟も友達ももれなくしたのでしょう。でも全ての人が君の周りの男と同じではないよ」と言いたくなります。全てと言い切る人は「結局その人の周りは全てそうだった」と言う事にすぎません。なのでそういう人は注意して下さい。ばれてますよ。眞悧になってますよ。

あと、眞悧はラスボスでもあります。「ラスボスが感情こめて言う事の反対が大事」理論があります(もはや理論では無いかもしれませんけど)。

眞悧先生が「人と人はつながる事が出来ない」と言えば「人と人のつながりはとても大事だ」と言う意味です。

あとラスボスが良く言う言葉で「お前なんぞに俺が倒せるか!」と言いますが、間違いなく倒されます。

眞悧先生は最終回で言いますね「君たちは絶対に幸せになんかなれない!」と、これは眞悧先生のエールです。意味は……言うまでも無いですね。

 

結局、桃果はいい人なのに帰ってこなかったですね。行ってしまった。でもこれでいいんでしょうね。輪廻転生がある世界です。桃果は解脱するのでしょう。

それに強い光があるからこそ、闇の存在がはっきりした形をとれるのです。光が強く無ければぼんやりとした影のみになる。なので桃果は去らなければならなかったのです。人を超えた正義は人の世界ではまぶし過ぎるのでしょう。

そして眞悧はさびしく残されます。去る桃果に「そう」とだけ言って。闇と光は表裏一体です。必ず一緒の所にある。しかし闇は決して光とは仲良くはなれない。闇だからこそなれない。眞悧にはそれが分からず変わらず、ずっと凍っているのでしょう。

つまりこの物語は「去る女に言葉を贈るな!」という物語……でしたっけ? 違いましたっけ?