号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

Yohooニュースを見て思った事 4

22年 6月30日

正確にはYahooニュース「等」を見て思ったことです。

 

時間も経って、皆どうでも良くなっているニュース記事について、主に書きます。

それは、皆の考えが出た後だと思ったからです。

大事なのは自分で考えることですね。

 

それに、そもそも大したニュースでもないと思ったから書かなかったのですが、ニュース自体ではなく、この国の考える力が見えてくるのが面白いわけです。

ニュースよりも、この考える力が足りない方が、大きな問題です。

考える力のない人達しかいない国に、未来は無いですから。

 

ランドセルにタイヤを付けてキャリーケース化する器具を開発したら、批判が出て、その批判にまた批判が出た事に対してです。

このニュースで面白いのが「そもそもランドセルがいらない」と言い出さないことですね。ここに意味があると分かっている人がどれほどいるのか?(マツコさんは言い出しましたが、これは後で書きます)

重いのならランドセルがいらない筈なのに、それを言わないのは「そこにノスタルジックな思い出が詰まっているから」ですよ。

つまり、重いと言ってる人でも多くは「ランドセルはなくしたくない」と思っていると言う事です。

これはただの個人の感情です。意味はない。

では「ランドセルはちゃんと背負えよ」と言っている人はどうでしょうか? この人もただの感情です。意味はない。

だから重いと言ってる人も、背負えと言ってる人も、どっちも感情的になっていることに気が付かない人達です。だから似たりよったりです。

そこを突っ込むのがマツコさんですね。流石に人気が出る人だけはあります。

ランドセルいらないでしょ? 何の意味があるの?

そもそも重いのが問題なら、持たさなければいい。背負おうがタイヤをつけようが、問題になるくらい重いのなら、持ち運ばないようにするのが普通です。

その「普通」が初めに出ないで「背負う、背負わない」問題になるのが異常ですね。

 

ではランドセルとは何か? です。

ノスタルジックな感情だったり、商売的だったり、おじいさんが孫にしてやれる楽しみ、等の実際の使いみちとは違う必要性は無視します。それは別でやれと言いたいです。

ランドセルとは「小学生の制服」であり「重り」です。

小学生は制服を着ない。だから代わりにランドセルです。それがいらないというのなら、中高生の制服もいらない。会社員のスーツもいらない。

 

後は、やはり「重り」でしょう。

「いつから鍛える道具になったんだ」という人がいますが、あれが重りでないのなら、なぜ今まで放っておいたのでしょう?

大人は灯油缶は背負わないけど、何かを背負わなければいけない時もあります。その訓練です。

私はランドセルを重いと思ったことはありません。それが原因で学校に行かない人も聞いたことがないし、それよりも大きないじめ問題を放っておいてそこ気になるのかな?

ただ最近は重くなっているようですし、遠くの学校に通っている人は重いかもしれません。

ただ昔だって体を壊している人とか、例外があった筈です。今だってそれが「やってはいけないくらい重い」のなら、持ち運ばないようにするとか、車で送り迎えとかするのが常識でしょ?

それをしてないという事は「常識がないのか?」もしくは「そこまで重くはない」のかのどちらかです。

 

それに重さを抜きにした「持ち運ぶ訓練」でもあります。

「ちゃんと家に持って帰り、ちゃんと学校に持ってくる」というのの訓練です。

ただこれは重さは関係がないので、軽くしてもいいでしょう。

 

さて私の答えです。

マツコさんの様に「ランドセル自体いらない」と思います。

ただ、たぶん皆なくしたくない事でしょう。それでもいいです。

なぜなら必要性もあるからです。制服であり、重りです。

そして「やってはいけない位の重り」なら、臨機応変に軽くする必要があります。学校に置いとけるようにするべきです。

臨機応変に軽くする」と言う当たり前が。まず第一に頭に浮かばないのがこの国です。距離や体調や年で、持てる重さは変わるのだからそうするべきですね。

さてもう一度言います。ランドセルは「重り」です。それが必要ないのなら、ランドセルが必要ないのです。

(重りとは、物理的にも精神的にもです。制服やスーツが精神的な重りでもあるのと同じです)

 

ちなみに、義務教育の学校に行かないユーチューバーがいますね。

彼に「行ったほうがいい」と言うと「それはあなたの考えだ」とか言うようですね。

皆彼にちゃんと言うのだから真面目ですね。

忘れているのか知りませんけど「義務教育に行く年齢の子供に、決定権はない」のです。

もし子供に学校に行くかの決定権を与えたらどうなるのか? 行かない子供が1割以上は出てくることでしょう。少なくとも「今日は雨だから」「今日は体育だから」と何かあると行かない子供はほぼ全てになる事でしょう。

だから子供に決定権はないのです。

だから子供のユーチューバーに決定権を与えている時点で間違いです。行けと言うのが親の義務です。

これはランドセル持ち運びのタイヤを付ける器具を開発した子供にも言えることです。最後は親が決定権を持ってる事は教えるべきです。

どうも「親は灯油缶を背負うのか?」などと言うようですが「親が背負おうが何だろうがそれは関係がない」とは言っとくべきです。親だって子供の頃は背負ってたのだから、言われる筋合いはない。

もちろんちゃんと子供の意見も聞いて、それに反論する知識が必要です。頭ごなしに言うのは良くはない。

だけど最後は「この事に対しての決定権はお前にはない」と言う事実は教えておくべきです。これはどの国でも昔でもたぶん未来でも通っている事実だからです。普遍かつ不変の事実です。

 

さて他のニュース。

ひろゆきさんが「遅刻しても評価を出せばかまわない」と相変わらず言ってます。

「なんとなくおかしい」とは皆分かっていると思いますが「彼が何を言いたいのか?」が分かっていて、それを「論理的に答えれているのか?」と言うとどうでしょうか?

この事に対しての反論に対しても、どうもあまりいい答えを出せる人がいないように思えました。

もう一度いいますけど、この問題そのものと言うより「それらに対してちゃんと考えれているのか?」が大事だと言う事です。

 

ひろゆきさんが、遅刻も構わないという例として「人気ラーメン屋とかで並んでいる人がいるけど、それでも価値があるから成り立っている」と言うような事を言ったようです。

これは「待たされても、それ以上の価値があれば納得する」と言いたいのだと思います。

これに対して「初めから並んで待たされると分かっていて待っている人と、遅刻すると分かって無くて待たされる人は違う」という人がいます。まあその通りです。

でも「その後の評価」の方を考えれば、思ったよりは同じです。

人気ラーメン屋で並んで待たされて、食べたらまずかったら怒ってもう来ないはずです。しかし美味いから評判になり、また並ぶのでしょう。

遅刻する人もそうで、遅刻されてもそれ以上の価値を得られたと思えば、縁を切らずまた会おうとする事でしょう。

つまりひろゆきさんは「その後」の事を言ってるのです。

 

その後の事ではなく、遅刻した瞬間で言えば間違いなく遅刻した人は悪く、並んでいる人は、並んでいるのは自己責任だと思う事でしょう。

 

それで、もっと俯瞰的にこのひろゆきさんの意見を見ると「もっと大事な事があるだろう」と言いたいのだと分かります。これが彼が本当に言いた事です。

つまり遅刻しないけど結果を何も出さない人より、遅刻するけど結果を出す人のほうがいい、と言う理屈です。

 

私も前から「もっと大事な物を見落としている」と世間に思う事があったので、この言いたい事は分かります。

私は「挨拶をしろ」という人が、子供の頃から嫌いで「もっと大事な事があるだろ」と思って生きてきました。

例えば私は家族には挨拶はしないけど、それで関係性が壊れる事もないし、挨拶をする事でもっと仲良くなる事もない。

そもそも挨拶が必要な間柄なんて、薄っぺらいものです。

なので「もっと挨拶より大事な事があるだろ」と思ってましたし、この挨拶という上っ面しか気にしない大人はなんて薄っぺらい生き物だろう、と思って来ました。

だたそうは言っても、今は「挨拶くらいはしといた方が良い」とは思っています。家族みたいな付き合いは皆としないのだから、この薄っぺらいコミュニケーションも必要なのが事実だからです。

理想はどうであっても、事実は事実として考えるべきだ、と言う事です。

 

さて話は戻し、ひろゆきさんの「結果を出せば、遅刻もいい」という方はどうか?

これはあっているのですけど、大事なのは「遅刻を取り消すくらいの結果を出せるか?」と言う事です。

これは時と場合によります。例えば一日一便しか出ない飛行機に乗り遅れるとかの場合は論外です。

しかしそこまで切迫してない時はどうでしょうか?

それでも「遅刻を覆すくらいの結果を叩き出す」のは至難のわざです。

ほとんどの場合は「もう、あいつとは会わない」となる事でしょう。

土台覆すのは無理なのです。理想はどうであれ、事実は事実です。だから「遅刻はしない方が良い」と言うのが私の答えです。

逆に言うと「遅刻をしない」と言うだけで、どれほどのマイナスを得ないで済むのか? つまりどれほどのプラスを与えないと遅刻を取りえす事が出来ないのか? を考えれば「費用対効果」で明らかに「遅刻をしない方が良い」になると、考えれば分かります。

ひろゆきさんは「自分は遅刻を補うくらいの結果を出している」と言いたいのだろうし「もっと大事な事を分かっていて、それは気にして生きている」と言いたいのだと思います。

しかし一部の人しか出来ない事を、多数の人に当たり前のように言うのは間違ってます。この事が今回の彼の間違いなのでしょう。

 

この彼の意見の何が間違いか? どう間違っていたのか? を考える事は、鍛錬になると思うので、そういう意味では面白い記事でした。

 

さて最後に経済についてです。ここは完全に素人なので疑って聞いてください。

日銀の国債保有率が50%超えたようですね。すごい国ですね。

では残り半分買ってしまえば、国の借金なくなるのじゃないでしょうか?

もし買って行ったらどうなるのでしょうね?

少なくとも円が増えすぎ、しかも信頼がなくなり、円安がもっと加速することでしょう。

そうすれば一般国民が困る事でしょう。物価が上がるからね。

金持ちや大企業はどうか? 出回る金が増えるので、それらを金持ちは得られるでしょうから、彼らはプラマイ変わらない。

働いてない老人や、給料の増えない中間から下の人達が苦しむことでしょう。

これは、残り半分500兆円買って行ったら? とシナリオです。

では逆に500兆円ぶん日銀が国債を持って無かったら? もしくは売ってしまったら?

逆に円高になると思えませんか?

つまり「これから残り500兆円国債を買う」が大変な事になると言うのなら、既に「500兆円買っている事の問題が出ている筈だ」と言う事です。

やはり私には、国の借金を増税で返せないので、裏でステルス税金を皆で今払っていると思えてしょうがないですけどね。

これから騙されながら借りた借金を返すタームに入って来たように、私には思えます。

さてこの答えはこれから十年も経てば分かる事でしょう。

そしてその頃には団塊の世代は死に絶えている頃ですね。寿命でね。

 

所詮同じ船に乗っているのだから「危ないぞ」と思っていても、馬鹿みたいに人生を謳歌していても、沈む時は同じです。

なら人生を謳歌するか、もしくは船から出て行ってしまうしかないのでしょう。

だからひろゆきさんは「外国に行ってしまえ」と言うのでしょう。

ちゃんと世の中を見てる人が言う言葉が「逃げてしまえ」としか言えない。

この意味を理解している人がどれほどいるのかな?