号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

色々燃えるオリンピック

暑いですね。燃えそうですね。

 

オリンピックの問題の事で、思った事を書きます。

このブログは物語について書いてます。

実際のニュースの内容を考える事は、物語制作の役に立ちます。だからやるべきです。

皆が気になると言う事は、皆が気になる何かがあると言う事だからです。

 

 

オリンピックの音楽担当の方の、いじめ問題がありましたね。

落ち着いてきたので、その事について書きます。

 

まず、多くの人が色々言ってました。

しかし「これが正解」と言えるものを言った人はいなかったと思います。

これは何か?

多くの人が考えて言ったのに、一つの正解が特定できないと言う事は「そもそも一つのほぼ完璧な答え何て無い問題だ」と言う事です。

だから私にも一つの答えはありません。

しかし皆が言った事で印象深かった事は、一理あります。

だから「あの考えは違う」と頭ごなしに言わないで「その考えも一理あるのじゃ無いのか?」と一回は肯定して考えるべきです。

全ての答えには反論できるし、多くの事には肯定も出来るからです。

 

この話が本に載ったのは今から25年以上前ですね。実際いじめたのはもっと前でしょう。

今は違うけど、この頃は殺人事件だって時効が25年だった筈です。

なのに25年以上前の話を「今」叩く事にどれほどの正当性があるのか?

私は正当性は微妙だと思いますが、実は正義はあるかもしれないと思っています。

例え25年前の事であっても、今現在でも叩かれる事は、今後の「抑止力」にはなりますね。「いじめ何てしたら、一生言われるぞ」と言う事になるからです。

だから「言われてもしょうがない」と言うのが私の思いです。

 

もちろんやった内容にもよります。

大した事でないのに言われ続けるのは、やはり違う。

だけどあのいじめは酷いそうなので、じゃあしょうがないですね。

 

爆笑問題の太田さんが「時代感を考えた方がいい」と言うような事を言ってました。私もそう思います。

さんまさんは「俺の時代でも、あれは止められて載せれなかった」と言ってました。つまりテレビやラジオなんかのメジャーな媒体だったら、流石に当時でも止められただろうと言う事です。

しかし売ってるメジャーじゃない本なら乗せれた時代だったと言う事です。この事を太田さんは言ってます。あの時代はあの人だけではなく、多くの人があの位のいじめでも「まあ、あるだろう」という認識だったと言う事です。

もしあの本に載った内容が「人を刺したことがある」とか「強盗したことがある」とかだったら、流石に編集者も止めただろうと思います。

例えおかしな編集者で止めなくても、警察が来たはずです。そして大問題になった筈ですね。

しかしあの時代では、あのいじめは大問題になって無いのです。それを「時代感」として考えるべきです。あの本だって読んだのが100人って事は無いですよね? もっと多くの人が読んだのに、その当時は皆が無視を出来る、そんな時代だったと思い出すべきです。

つまり「いじめた本人」だけが異常でおかしな人だった訳では無いと言う事です。あれを載せれる普通に売ってる本、そしてそれを読んだ多くの人、だけど警察はこないし、マスコミもこない。そんな時代であり、多くの人の感覚がおかしかったと自覚するべきですね。

「いじめた本人だけを責めて、終わりで良いのか?」と言う事です。

 

カズレーザーさんが「あのいじめた人の、そこからの人生で、取り返す事をしてこなかった」みたいな事を言ってました。つまり反省が無いと言う事でしょう。罰則も無かったのだから、つまり罪を償って無いのだから、今責められてるのはしょうがないと言う事でしょうか?

カズレーザーさんが言うように、たぶん大して悪いとは思ってなかった事でしょう。だけどさっき言った様にこの人の異常性の問題ではなく、多くの人がそういう感覚だった事は理解しておくべきです。

それにこれは「あの人は反省をしてないだろう」と言う事は正しいかも知れませんが、「それの罰を今皆から受けるべき」と言うのは他の問題で、これは別個で考えるべきです。

 

ひろゆきさんが「10年ぐらい前にもこの問題が出てたので、10年毎にずっと言われ続けるのかな?」みたいな事を言ってました。

これもそうで、どこまで言われ続けるのか? それに正当性があるのか? 正義があるのか? は別に考えるべきだと言う事です。

それと同時に「10年前も皆知ってたろ。その時叩かないで今叩いてるマスコミはおかしいのじゃ無いのか?」と言う事でもあります。

 

なので「今責める正当性はあいまいだ」と言うのが私の意見です。

 

そもそも、あのいじめをして「警察に捕まってない」のが問題だと誰も言わないですね。

それがこの国のいじめ問題の、皆の感覚だと理解するべきです。

もし同じ事を社会人が社会人にしたら捕まりますよね。

なのに子供だと捕まらない。なぜかは私には分かりません。

もちろん少年法で裁けばいい。

それに小さな事なら記録に残らない解決でもいいです。つまりケンカで殴ったけど、ちょっとしたあざだから、その場で話し合い解決、でも良いと思います。

とにかく警察が動くべきです。

いじめ問題でも、学校内に警察が来る事を見せ、子供に社会を教えるべきです。

いじめ等と言う言葉で誤魔化しても、社会人では傷害事件で捕まるのだよ、と教えるべきですよね? 取り返せる子供の内に教えるべきです。

それをなぜか学校内では社会の常識が通じいないから、社会を学べない。

いったい何をしてるのか? 私には分かりません。

だから二十歳にもなって成人式であばれるのでしょう。あれが通ると思っているのです。なぜなら学生では通ってきたからです。

そう言えば、北海道のいじめ問題どうなったのでしょうね? なぜ傷害事件や脅迫をやっても子供だと誰も捕まらないのか? それとも捕まったのですかね?

 

今回のいじめ問題も、捕まらないと思ったから話したのです。

捕まらないと思ったから、雑誌に載せたのです。

そして実際捕まらないのです。これが日本の現実です。

あのいじめた人は学生時代に警察に捕まるべきだったのです。

捕まらない社会にも問題があると、どうして思わないのか?

 

あの人だけ、しかも今ごろに、責めて終わりなのか?

友達で一緒にいじめた人だって見付けようと思えば見付けられる。しかしそっちは簡単には責められないから、責めない。

他の今まであった多くのいじめに係わった人だって、日本中まだ生きている人が何百人もいる事でしょう。多くの昔の酷いいじめを見付け、証人も探し出せる事だって出来る筈です。でもしない。やろうともしない。

もちろん法律上で、時効が成立してる人は表立っては探せない。

しかしそれがおかしいと言うのなら、法律を変えればいい。でもしないでしょ? 昔のいじめを探す事はしない筈です。北海道の事件をうやむやにしようとする国ですから。

なぜか? いじめは事件だと思って無いからです。大人の昔の事件なら犯人を探す。しかしいじめは、この国では犯罪じゃないのです。なぜなのか? それでいいのか? を考えてみるべきです。

今回のいじめの人が責められてるのはしょうがないとしても、これで終わりなら、ただのガス抜きだったと思います。誰かを弾劾したかっただけの気がします。

本当に悪を裁きたいのなら、なぜ25年も経ってなのか? なぜ他のいじめの人は裁かないのか? なぜ国のやり方、法律に問題があるとは思わないのか? これらを無視して誰かを叩いて、そこに正当性はあるのか? これで終わりでいいのか?

だから今回のいじめ問題には、この国の闇が見えると思いますが、どうでしょうか?

 

あの人が出来る事と言えば、直接本人に謝りに行く事くらいです。

しかし他の人が言ってる様に、いじめられた方は会いたくない可能性が高いですね。

なので第三者を通して聞いてみるべきです。

それで会いたくないと言われたら、そこで終わりです。

ただもし会ってくれて、謝罪を受け入れてくれたら「いじめられた人にとっても、区切りになる」と思っています。

「いじめた本人が得をする」だけではなく「いじめられた人も心に整理が付く」ので、会えるのならあって和解するべきです。

でももう一度言いますが「会いたくない」と言われたら、そこで止めるべきです。

 

もう一度言いますが、あれは子供を捕まえてこなかったこの国の問題でもあります。

子供に法律を教えてこなかった、この国全体の問題です。

他人事ではない。

 

 

さて、他の事で気になった事は、もう少し軽い内容にします。

 

ビーチハンドボール女子のビキニ問題です。

ビキニを止め、短パンで試合をした事です。

 

そのそもなぜ「ビーチ」ハンドボールなのか? ですね。

単純にビーチと言う物に、皆が憧れや、良い感情があるからです。

だからビーチじゃないといけない。ビーチだから皆が興味を持ち、皆が見て、スポンサーが付き、選手達がやって行けるのです。

だからどうしても「ビーチ」を外せないのは分かります。

 

もし短パンを認めたとしたら?

その時はアラブ圏の為に全身タイツも、ブルカも認めなくてはいけない。しかしそれだとビーチじゃないでしょ?

それはもう「砂上」ハンドボールです。

「砂上」だったらなんでもいいでしょ? サッカーでも百メートル走でも柔道でも。

でも「ビーチ」だから、ビーチでやりやすいハンドボールだったりバレーボールだったりするのです。

それに「砂上競技」じゃあ客は見てくれない。プロが育たないのです。皆が見たがるビーチじゃ無いといけないのです。

ビーチだからハンドボールとバレーボールが存在している。それに気が付くべきです。

もちろんスポーツ何て、誰も見なくても、やらなくてもかまわないものです。しかし誰もやらない見ない競技で本当にいいのかは、選手は考えてから決めるべきですね。

 

それにビーチで皆がどんな格好をしてるのか? です。

もちろん遊びで行くビーチだから、どんな格好でもいい、つまり自由です。

その中で短パン女子がどれほどいるのかです。もし一割でもいるのなら、短パンも認めるべきですね。しかしいないですよね?

なら自由な「ビーチ」で皆が着ている格好をしろ、と言うのは別に筋が通ってると思います。なぜ男子は短パンで良いのか? と言われたら、実際のビーチでも短パンが多いからだと言うだけです。

 

ちょっとビーチハンドボール女子の短パン問題は勇み足な気がします。

体操女子の肌を隠す衣装の方は、それでいいと思いますけどね。

 

 

さてもう一つ、オリンピックの演出をする人で、過去にコントでナチスの虐殺をネタにした人についてです。

 

まあ、日本に置き代えて見たら「原爆をおかしくネタにした人がいた」と言う事ですからね。

気持ち悪いし、頭に来る事でしょう。

でもこれも20年前の事です。

それに、この人がただの若気の至りだったかは、他の行動や言動、それにどの程度の事をどの程度多く言ったのか? で分かりますよね?

私には、この人は若気の至りだと思います。

だからと言って、他国の人が許すかは他国の問題であり、こっちがどう思おうが関係がないので、世界的な催しで文句を言われたら、この人を降ろす事はしょうがないですね。

 

ただもし反対の立場なら、許せるような人でありたいですね。

許せるような国でもありたいです。この程度ならね。

 

 

オリンピックは良くある事ではないですね。

良くある事では無いと言う事は、新たな事が多いと言う事です。

そして新たな事には、基本の考えがしっかりした人でないと無理なのです。

今までしてきた事を繰り返せないからです。

さてこの国はどう見えましたか?

その見えた物がこの国の現在地です。

それがバレただけでも、少しは意味があったと思いたいですね。